[海外出張報告] 塩田勝彦(言語・文学班)オーストリア共和国 海外出張期間:2020年2月29日〜3月9日

「ヨルバ語による出版事情を文献から確認する」
塩田勝彦

(派遣先国:オーストリア共和国/海外出張期間:2020年2月29日〜3月9日)

今回の調査は、日本でもナイジェリアでもなかなか全貌を掴みにくい、20世紀前半のヨルバ語出版事情を調べることを目的とし、アフリカ研究所のあるウィーン大学とその図書館を訪れました。

ヨルバ語は19世紀に文字化されますが、当時はまだ標準ヨルバ語というものも存在せず、そもそもヨルバ語という名前すら一般的ではなかったのですが、キリスト教宣教師が布教のため標準語とその文字を作り出し、20世紀になるころには広く普及していたと考えられています。

アフリカ諸語の比較研究黎明期に出版された、ケッレの『ポリグロッタアフリカーナ』では、現在のヨルバ語に相当する言語群を「アク語」と名付けており、そこには13言語を収録しています。「ヨルバ語」はその中の一つとしてリストアップされており、『ポリグロッタ…』が出版された1853年には、「ヨルバ語」という名前は一般には受け入れられていなかったことがわかります。ケッレの記述には、イジェブ語(現在はヨルバ語の方言の一つとみなされている)の話者が、ヨルバという名前に拒否感を表している様子が描写されており、ヨルバ民族が作られる前の民族感情が垣間見え、大変興味深く感じました。

ヨルバ語による出版物は、標準語化の完成する19世紀後半から少しずつ現れますが、初期の出版物はキリスト教の宣教パンフレットや、ヨルバ語の教本など、宗教を含めた広い意味での教育に関するものがほとんどだったようです。文学作品と呼べるものは、新聞に掲載される詩が中心で、比喩を多用した称賛詩が多く、それとは逆に批判(時にはあからさまな誹謗中傷)を目的とした詩も見られます。新聞は政治経済のニュースを伝えるだけでなく、創作の発表の場としても見なされるようになり、1929年には初めての小説Iwe Itan igbesi Aiye Emi Segilola「セギロラ、私の人生」(J.B.トーマス著)が発表されます。

ヨルバ語による出版活動は1930年に最初のピークを迎えますが、その後は大恐慌、第二次大戦などの影響で下火になり、1950年代に再び上昇機運を迎えます。

50年代は、独立へ向けて民族意識が高揚し、ヨルバ語のみならず、ハウサ語、イボ語など、ナイジェリアの多くの言語が活発な出版活動を始める時代でした。こうした気運は1960年の独立以降も伸び続けますが、1964年をピークに徐々に冷え込み、1970年代には1930年代と同じレベルまで落ちてしまいます。

このような出版気運の低下はいったい何に起因するのでしょうか。一つに、独立から10年の区切りを迎え、盛り上がった民族意識より、経済に結びつく英語を選択するという、ナイジェリア人の現実的な選択があるでしょう。戦後に現れた教養あるナイジェリア人作家たちも、そのほとんどが創作の言語として英語を選択しています。ヨルバ語による創作はもっぱらポピュラー音楽家や詩人など、民衆に近いアーティストによるもので、それらの表現は文字ではなく、声によって作り出されるものでした。このようにしてヨルバ人の創作は、英語で書き、ヨルバ語で歌うという形に定着していきました。

最後にウィーンの様子についても少し触れておきたいと思います。3月初旬のウィーンは、コロナウイルスはまだ外国の話という感じで、テロ防止の意味からマスクの着用が法律で禁じられていたこともあり(現在は合法)、人通りも人の表情も通常どおりで、大学も図書館も開いていました。ヨーロッパでアジア人に対する視線が厳しくなっているという噂もありましたが、そういうこともまったくなく、通常通りの調査活動が行えたという点で、1週間という短い滞在でしたが、今回は貴重な経験をすることができたと思っています。

ウィーン大学旧キャンパス。

ウィーン大学新キャンパス内部。アフリカ学研究所はここにある。

[海外出張報告] 大山修一(開発・生業班)イタリア 海外出張期間:2019年5月14日~18日

「イタリア・ローマFAO本部 土壌侵食シンポジウム参加・発表」
大山修一

(派遣先国:イタリア/海外出張期間:2019年5月14日~18日)

2019年5月15日から17日まで、国連食糧農業機関(FAO)のローマ本部で開催された「土壌侵食シンポジウム2019」(GSER19 Global Symposium on Soil Erosion)に参加した。参加者は500人以上、発表件数はキーノート・スピーカー、招待講演者、口頭発表、ポスター発表をふくめて150件ほどの大きな国際シンポジウムであった。

このシンポジウムの趣旨は、YouTubeでわかりやすいアニメーション(2分12秒、英語)がインターネットにアップされている。その内容は、以下のとおりである。
https://www.youtube.com/watch?v=MSbbl5lpmik

地球上では毎5秒ごとにサッカー場1つ分の土壌侵食が引き起こされ、雨や風、農業によって進み、もっとも肥沃な表層土壌を流し出しています。土壌侵食によって、食料生産が影響を受け、生産される農産物の量・質ともに劣化します。食料生産は今後、50%にまで低下すると懸念されています。土壌侵食を受けた土地は水を受けつけず、雨水が洪水や斜面崩壊、地すべりを引き起こします。風で飛ばされる砂は人間の健康被害を引き起こし、地中に存在する重金属が露出し、土壌汚染を引き起こします。

土壌は炭素の貯蔵庫ですが、表層土壌の流出により、炭素が二酸化炭素として放出され、気候変動にも影響を及ぼすほか、土壌がないため気候変動の影響も受けやすくなります。土壌中には多くの生物が生息していますが、その多様性も失われることになります。自然界が厚さ2-3cmの土壌を作るのに1000年かかったといいますが、われわれ人類は急速なスピードで土壌を失っています。

この土壌侵食の重要性を認識し、その対処を考えるというのが、シンポジウムの趣旨であった。わたしは、「サヘルにおける土壌侵食から土壌の堆積へ:都市の有機ゴミのリサイクルと土壌侵食地への投与」と題して発表をおこなった。わたしの発表は、ニジェールにおける土壌侵食が飢餓や貧困を引き起こし、農耕民と牧畜民が武力衝突をしていること、大きな貧富の格差と貧困ゆえにテロが生じていること、そしてその解決のために、ニアメ市のゴミを使って緑化をし、人々の平穏な暮らしをつくるという、これまで20年ちかい活動を紹介するものであった。この都市のゴミを利用して荒廃地の環境修復を進める取り組みは、現地に居住するハウサの農耕民の生態的知識を応用していることを説明した。

聴衆からは、都市のゴミで土壌侵食を止め、緑化ができるということにショックを受けたというコメントを受け取り、大きな反響を受けた。また、発表のなかではニアメ市のゴミの重金属や有害物質の分析結果も示したが、人間の出すゴミに対する有害性への懸念が根強いことも、改めて理解できたが、その返答として現地の人々の知識や環境認識、日々の営みから学ぶという姿勢の重要性を説明し、先進国や外部社会からは理解できない砂漠化の深刻さとともに、ゴミを有効活用し、砂漠化問題を解決しようとするニジェールの人々の「アフリカ潜在力」を強調した。

FAOのシンポジウムでは、学者が参加する国際学会とはちがい、ワーキング・ドキュメントを作成するということをひとつの目的にしている。国連は各国の政策に介入することはできないが、このシンポジウムは科学者の知見をもとに提言を作ることが目的のひとつにあり、わたしが参加したのは、セッション2「土壌侵食を止める政策」で、提言を作成するという色合いが濃かった。

さまざまな国・地域の自然条件、政策の歴史、人口、市場へのアクセス、農業や牧畜の経済活動が異なり、フィールドにおけるデータの収集とデータベースの構築、現状を表現する再現モデルの構築の継続、地域・国家、グローバルに対応していくためのデータづくりと政策提言の重要性を確認するという、結論は「まるいもの」になったが、都市のあり方を考え、土壌侵食を抑止する資源として都市の有機性ゴミを検討することが提言のなかに入った。われわれが安全性と清潔さ、利便をもとめる生産物は消費されたのち、その残骸である廃棄物には危険性と不潔さ、そして無用が強調され、うまく自然界に戻せていないのが実情である。ニジェールのわたしの活動が、世界各地で適用できるとはとても思えないが、人類―とくに都市を生態系のなかに位置づけることは今後の持続性を考えるうえで必要である。

シンポジウムの様子(Global Symposium on Soil Erosion, FAO 2019年5月15日―17日)

発表スライド(共同発表者は、東京外国語大学の桐越仁美さんとニジェール気象局のイブラヒム・マンマンさん)。この発表スライドは以下よりダウンロードできます。
https://www.slideshare.net/ExternalEvents/from-soil-erosion-to-soil-accumulation-recycling-urban-organic-waste-to-the-eroded-land-in-sahel-west-africa

[海外出張報告] 太田至(開発・生業班)ケニア共和国・タンザニア連合共和国 海外出張期間:2020年2月4日〜3月5日

「ケニアで実施された国際会議の出席およびトゥルカナ・原油探査地域における現地調査、2020年度にタンザニアで実施する「アフリカ・フォーラム」の準備」
太田至

(派遣先国:ケニア共和国・タンザニア連合共和国/海外出張期間:2020年2月4日〜3月5日)

ケニアでは第一に、本研究プロジェクトの開始当初から海外協力者として参加していただいているKennedy Mkutu教授(アメリカ国際大学・ナイロビ)が主催した国際会議「Impacts of Mega-Projects in East Africa」(2020年2月7日開催)に出席して口頭発表と討論をおこなった。太田は「Social Impact of Oil Exploration and Production in the Turkana County, Kenya」と題する口頭発表においてトゥルカナ郡南部で進行している石油探査・開発事業が地元社会に与える社会的・経済的影響について報告した。

ケニアでは第二に、上記のトゥルカナ地域における現地調査も実施した。石油探査・開発事業を行っている多国籍企業(Tullow Kenya BV)は、企業の社会的責任(CSR)を果たすための取り組みとして、その下請け仕事の30%を地元の会社に行わせるとともに、学校や診療所、水場の建設などを「社会投資プログラム(Social Investment Program)」の名のもとに遂行している。今回の現地調査では、地元民が自ら建設会社を立ち上げて、下請け仕事や社会投資プログラムの実施を請け負っている実態を明らかにした。地元民は、Tullow Kenya BVが行ってきた研修事業に参加してビジネスに関する知識を修得するとともに、お互いに情報を交換しつつ、ときにはUSAIDなどの支援を受けながら積極的にビジネスに参与していた。

本研究プロジェクトでは、毎年一回、アフリカ各地の都市において「アフリカ・フォーラム」を実施しており、2020年度にはタンザニアのダルエスサラームで開催する予定である。その準備をするために太田は、モロゴロにあるソコイネ農業大学を訪問してAmon Mattee教授およびDavid Mhando教授と面談し、本研究プロジェクトの目的やこれまでの実施状況を説明するとともに、来年度にアフリカ・フォーラムを共催するための協議をおこなった。Mattee教授には、来年度のフォーラムでキーノート・スピーチをすることを了承していただき、また、このフォーラムで「アフリカ潜在力」に関する口頭発表を行うタンザニア人の研究者を数名、紹介することも快諾していただいた。太田はまた、このフォーラムを実施できる環境を備えたホテルを探すために、ダルエスサラームで5つのホテルを訪問し、会場の下見を行った。

African Management InitiativeがLundin Foundationと連携して2018年に現地で実施した4か月間のビジネス研修に参加したトゥルカナ女性に与えられた修了証明書

[海外出張報告] 松原加奈(開発・生業班)オーストリア共和国 海外出張期間:2020年3月1日〜4日、9日〜12日

「エチオピアの革靴製造業と国際機関の関係」
松原加奈

(派遣先国:オーストリア共和国/海外出張期間:2020年3月1日~4日、9日~12日)

はじめに
筆者はエチオピアの首都アジスアベバの革靴工場で働く労働者を調査対象としている。対象の革靴工場では、工場労働者が所属する企業の方針や労働環境下、労働者のライフコースにおける技能習得に着目し、調査を進めている。調査企業の労働者は、若年層が多くを占め、勤続年数も短いが、設立年数が長い中・大企業の場合には、30年以上働く労働者、さらに長期間働いて定年を迎えた労働者も存在する。その長期間勤続する労働者は、「UNIDO(United Nations Industrial Development Organization、国連工業開発機関)から技術指導を受けた」、あるいは「機械が導入された」、と折にふれて報告者に語った。また、調査対象である一小企業が所属する産業クラスターもUNIDOから支援を受けているという。

中・大企業の歴史と企業を取り巻く政府の対応の変遷を知るために、エチオピア国内で資料収集を実施した。しかし、社会主義時代の政府資料が破棄されており、当時の状況について、資料をもとにたどるのは困難であった。そこで、国際機関であるUNIDOに資料が残されている可能性があるのではないかと考えた。また、小企業の属する産業クラスターにおけるUNIDOのプロジェクトの変遷を追うことは、国際機関の援助がアフリカの現地企業や労働者に与える影響を考慮するうえで重要になると考えられた。

調査目的・結果
本調査では、オーストリア・ウィーンのUNIDO本部へ訪問し、中・大企業および零細・小企業への支援活動やプロジェクトの内容、変遷を調べることを目的とした。調査開始日は3月2日からであったが、COVID-19の感染予防のため、当時流行していた一部の国から帰国したUNIDO職員および来訪者は本部へ立ち入ることができなかった。よって、下記の調査内容は、現地でのテレワークによって得た結果である。

エチオピアはUNIDO加盟国のなかで、包括的で持続可能な産業開発を促進するための革新的なモデルであるカントリー・パートナーシップ・プログラム(PCP)の対象国の一つである 1)。UNIDOのエチオピアの皮革産業に関する現行プロジェクトは2つある。ひとつは、原皮の品質と量の向上、鞣し革工場のグローバル・バリューチェーンでの競争力の獲得、および環境法の遵守、アジスアベバ近郊のモジョ皮革工業団地内または近郊に位置する企業(零細・小企業も含む)への支援をするプロジェクト2) である。もうひとつは、零細・小企業が所属する産業クラスターへのプロジェクト3) である。産業クラスターとは、政府が提供する零細・小企業が操業するための施設である。また、SPX(Subcontracting Partnership Exchange)4) というプロジェクトの一部では、相手先のニーズを満たすための能力を強化することを通じて、特定の革靴企業の輸出の促進を支援していた。

産業クラスターに関するプロジェクトは第二フェーズに入っているが、以前プロジェクトにかかわっていたUNIDO職員に話を聞くことができた。零細・小企業と中・大企業へのプロジェクトを明確に分けて支援をしていること、産業クラスターについては、個々の企業ではなくクラスター全体への支援をしていることが明らかとなった。

また、UNIDOの調査研究部の責任者の話も聞くことができた。UNIDOの調査研究は、過去の資料の蓄積・収集ではなく、支援対象の開発途上国の政府の産業政策のニーズに合わせて政策の案を示すことが主体であることが分かった。

UNIDO本部に加えて、ウィーン市内にある革靴および皮革製品の製造と販売をおこなう企業を訪問し、革靴製造について聞き取り調査を実施した。本企業は、1816年創業の老舗でヨーロッパ全体において品質を高く評価されてきた。主に、企業の歴史の概略および個々の顧客に合わせた靴型の保存について聞き取りした(写真参照)。

 

おわりに
本調査から、UNIDOは産業全体および企業の発展に主眼をおいて支援していることが分かった。また、各プロジェクトで産業支援をしており、断続的に支援が展開されているため、古い資料は残されていなかった。

一方、次回のエチオピアでの現地調査のために、本調査では多くの職員を紹介していただいた。エチオピア国内のUNIDO事務所には、皮革産業に関連するプロジェクトに20年以上関わっている職員や、同国の皮革産業に関して長期的にかかわっている現地職員が働いている。COVID-19の蔓延が終息次第、紹介していただいた職員に会い、調査を継続する予定である。継続調査では、エチオピアの皮革産業の歴史とUNIDOの援助の変遷も追っていきたい。特に20年以上支援に携わる職員には、古い資料についてもその所在や探索の方法について助言を乞う予定である。

また、国際機関としては国際労働機関(ILO)が筆者の問題関心である人材育成に強く関与しているとの情報をUNIDOから得た。機会があれば、ILOについても調査をおこない、国際的アクターが働く人びとの潜在力の発揮とどのように関わっているのか、さらに考究していきたい。

謝辞
今回の調査にあたり、UNIDO東京事務所のフェルダ・ゲレゲン次長、重松美奈子さん、UNIDO本部の藤山芳江さん、今津牧さんには大変お世話になりました。聞き取り調査でも多くのUNIDO本部の方々にお世話になりました。末筆ながら、ここで感謝申し上げます。


1) https://open.unido.org/projects/ET/projects/150037参照
2) https://open.unido.org/projects/ET/projects/160086参照
3) https://open.unido.org/projects/ET/projects/150201参照
4) http://spx.unido.org/spx/Default2.aspx

[海外出張報告] 山崎暢子(開発・生業班)ウガンダ共和国 海外出張期間:2020年2月4日〜29日

「ウガンダ北部の農村における紛争下の食料確保―現在の生計維持との比較から―」
山崎暢子

(派遣先国:ウガンダ共和国/海外出張期間:2020年2月4日〜2月29日)

渡航の目的はふたつあり、ウガンダ北部の農村における人びとの紛争下での暮らしを記述すること、そして、現在の生計維持の実態を解明することである。現地調査は、西ナイル準地域(以下、西ナイル)アルア県南部の農村で実施した。

本調査における聞き取りは、アミン政権が崩壊した1979年4月から、現ムセベニ政権が成立する1986年1月までの、政変が相次いだ期間に生じた紛争と、この時期の人びとの食糧確保の方法を対象とした。アミン政権期にウガンダ国外へ亡命したオボテ大統領をはじめとする反アミン勢力は、解放軍(UNLA)を組織して1979年にタンザニア軍とともに首都カンパラへ進み、アミン政権を倒した。これに対してアミン政権下のウガンダ国軍の元兵士らは反政府勢力を組織して対抗したが、暫定政府軍‐反政府勢力という対立構造だけではなく、混乱に乗じて暴徒化した解放軍兵士やゲリラ集団などによる略奪行為や住民に対する襲撃も各地で頻発し、多数の一般市民までもが巻き添えになった。その結果、大勢の人びとが、隣国のスーダン南部やコンゴ民主共和国(当時のザイール。以下、DRC)へと流出した。難民定住地で支援を受けながら、避難生活を送る人びとも多くいたなかで、調査対象とした村人たちは当時、DRCに暮らす親族や知人、あるいは教会をたよって身を隠していた。

アルア県の調査村では、当時の国営放送「ラジオ・ウガンダ」をとおしてアミン政権崩壊の一報を耳にして避難した人もいれば、カンパラやエンテベからアミン政権下の国軍兵士が西ナイルへ戻ってきていたこと、そしてそれを追って西ナイルへ解放軍(暫定政府軍)が北進してきたことから危険を感じてウガンダを離れた人もいた。

1970年代末以降の紛争を経験した村人にDRCでの避難中の食事について尋ねたところ、「いま食べているものとほとんど変わらなかった」とのこたえが異口同音に聞かれた。具体的には、こんにち西ナイルでひろく食べられているキャッサバ粉を湯で練った固粥(主食)と、葉菜類やマメ類を利用したソース(副食)である。避難先の親族が食事を提供してくれるのは恵まれたケースであり、多くの村人は避難先のDRCからウガンダの村まで自力で戻って食料を確保するか、ウガンダに留まった夫や親が農産物をDRCまで運んで食料を利用するか、あるいは、DRCで農作業を手伝い、その対価として食料を分けてもらうなどしていた。

避難中の生活に必要な日用品として、全員が石鹸と灯油、紅茶、そして塩に言及した。これらの消耗品の購入には現金が必要になる。ただしDRCではウガンダの通貨が使えなかったので、農作業の手伝いをして日銭を稼いでいた。急ぎで現金が必要な場合には、雇い主に前払いしてもらってしのぎ、その分の仕事をし、返済に充てた村人もいる。仕事は、必ずしも1日で終わるわけではなく、数日続くこともあれば、雇い手が必要とするときにだけ出向くというものだった。そうして得た現金で、必要な日用品をDRCの市場で購入した。ウガンダ国内では各所に暫定政府やオボテ政権による交通規制が敷かれていて、DRCからの帰還後にもアルアの町へ行く機会は限られていて、村人が利用する移動手段は、ほとんどが徒歩か自転車であった。2020年現在、徒歩や自転車で町まで出かける人は少数で、多くが小型バスかトラックを利用している。市のたつ日には、近くを大型のトラックが頻繁に通るが、これらはおもに仕入れた荷物を大量に運ぶ商人が利用しており、村人が乗車することは少ない。

キャッサバは1920年代に西ナイルへ導入されてから徐々に拡大し、その栽培は1940年代に入ると主食であったシコクビエの栽培を上回った。現在、ほとんどの世帯がキャッサバを主要な主食材料としており、乾季にあたる調査期間では、調査村の半数以上の世帯が村内の畑でキャッサバを栽培していた。村内の畑でキャッサバを栽培していない場合でも、村外の畑で栽培するか、あるいは親族が栽培しているキャッサバを分けてもらっている。

調査村において全世帯が農業を主たる生業とするなか、ガソリン販売やテーブルクロスの作製と販売、大工などの副業を営む世帯もある。どの世帯も、村内の畑で栽培している作物は自家消費が中心であるが、なかには余剰分を市場や庭先で販売して、現金を得ている世帯がある。また、村外に所有または借用する畑で、販売用の作物を大規模に栽培する世帯もあった。農繁期以外にはアルアの都市部や、カンパラやエンテベなどで就労し、農繁期には村へと戻って来ている村人もいた。さまざまな手段をとおして得られた現金は、食材・日用品の購入や転売目的の農作物の購入のほか、子どもの学費の支払いに充てられている。魚や肉、そのほかの食材をはじめ、ふだん履いているビニールのサンダル、肌着や医療品、文具、木材などは、村から徒歩で30分もかからない小さな町で手に入る。加えて、農作業で使う犂や鍬、長靴や衣類、ラジオなどの日用品のほか、自転車の修理などは、週2回ひらかれるウガンダとDRCの国境線上の市場(村からは徒歩で1時間半ほど)で入手が可能である。それでも入手できない物品やサービスについては、自分でアルアの町に出かけて購入・利用できるが、たいていは交通費の工面に苦労するので、用事で町へ出かける人に言付けをして調達してもらってくる様子をよく見かけた。

現在アルア県は約78万の人口を抱え、ウガンダ国内では4番目に人口密度が高く、県の総人口の9割超が農村部に居住する[UBOS 2014]。調査村でも1970年代に比べて世帯数が大幅に増え、可耕地の面積は目に見えて小さくなった。アルア県での主要道路の舗装はようやく2018年ごろに終了し、2021年にはアルア県都にある二つの郡が市として統合されることが予定されている。これにともない、この2~3年で小型の乗り合いバスのターミナルや中央市場は改装され、宿泊・商業施設を併設したスタジアムの建設も始まり、西ナイル以外の地域からも労働者が流入している。

1979年以降の紛争でDRCへ避難し、1985年にアルア県に戻ってきたある男性は、町の変わりようについてこう述べた。「私がアルアに戻ってきたとき、町は一面、焼け野原だった。どこもかしこも建物は破壊されていて、私たちのように恐る恐る戻ってきた人がまばらにいるだけだった。『シティ』になることでアルアには、メリットもデメリットももたらされるだろう。見ものだよ」。再開発の波に沸くアルア県ではいま、かつての紛争の傷跡は見る影もなくなりつつある。農村の住民の都市部へのアクセスも増えるなか、西ナイルの人びとの生活がどのように変化していくのか。そして、人びとが過去の紛争とどのように折り合いをつけていくのか、これからも見つづけていきたい。

UBOS. 2014. National Population and Housing Census Main Report. Uganda Bureau of Statistics.


上空から見たアルア県郊外の様子


ウガンダとDRCの国境線上に広がる市場。週2回ある市の日には近隣農村の住民のほか、都市部から大型車両で往来する商人らで賑わう


建設中のアルア中央市場

[海外出張報告] 藤井広重(国家・市民班)ウガンダ共和国、エチオピア連邦民主共和国 海外出張期間:2020年2月2日〜23日

「アフリカと国際的な刑事裁判所:ローカルとグローバルとの峡間からの展望」
藤井広重

(派遣先国:ウガンダ共和国、エチオピア連邦民主共和国/海外出張期間:2020年2月2日〜23日)

はじめに
筆者の研究課題は、アフリカが外部からの介入に対し、その相互作用として外部に影響を及ぼそうとするプロセスについて理論的に捉えることである。なかでも国際的な刑事裁判所の設置に関するアフリカ諸国の政治動学を探究することで、アフリカにおける司法介入の現状と法の支配の一端を解き明かしてきた。本調査もこの一環として、アフリカと国際的な刑事裁判所との関係性をローカルおよび地域機構のようなリージョナルな視座から捉え、考察することを目的とし、ウガンダでの国際刑事裁判所(International Criminal Court:ICC)による司法介入後の被害者支援の実態や地域社会の応答ならびにアフリカ連合で議論されている国際的な刑事裁判所、地域的な刑事裁判所および移行期正義に関する取り組みについての資料収集とインタビュー調査を実施した。主な訪問先は以下の通りである。

訪問先一覧
・ウガンダ
国際刑事裁判所被害者信託基金ウガンダ事務所 (Kampala)
マケレレ大学法学部
グル高等裁判所
Center for Victims of Torture: CVT (Gulu)
AVSI Foundation (Gulu)
グル大学法学部
National Memory & Peace Documentation Centre (Kitgum)

・エチオピア
アフリカ連合日本政府代表部 (Addis Ababa)
アフリカ連合法務部、アーカイブ、ライブラリー (Addis Ababa)

ウガンダと国際刑事裁判所
(1)国際刑事裁判所による司法介入と現在
ウガンダ北部では神の抵抗軍(Lord’s Resistance Army: LRA)と呼ばれる反政府勢力が1987年から活動を展開しており、大規模な人権侵害の事例が多数報告されてきた。同国は、2002年からICCローマ規程を批准しており、2004年に自ら同国内北部の事態をICCに対し自己付託した。ICCはLRAのメンバー5名に逮捕状を発布し、2015年1月に中央アフリカにて確保されたオグウェン(Dominic Ongwen)の審理がハーグの法廷にて進められている。

ウガンダ北部の中心都市グルには、首都カンパラから舗装された道がほぼ一直線に伸びている。そして、この道は南スーダン共和国の首都ジュバまで続いている。南スーダンに向かう国際機関等の人道支援物資がこの道を使って運ばれており、過去には紛争に苦しんだ都市が現在では紛争地に物資を供給する大事な中継地点となっている。筆者はグルから車で1時間30分ほどの距離にあるキトグムに向かい、National Memory & Peace Documentation Centre(NMPDC)にて同センターの研究員とも面会した。ウガンダ北部の歴史からLRAの活動、マト・オプトなどの伝統的な和解のメカニズムの現状に至るまで幅広いトピックについて話す時間を作っていただけた。NMPDCは1999年から始まったマケレレ大学によるThe Refugee Law Project (RLP)による取り組みの一環として運営されている。本センターでは、ウガンダで発生した紛争だけでなく、現在では南スーダンでの紛争についての展示も行われている。

写真1 カンパラとグルをつなぐ道路

写真2 National Memory & Peace Documentation Centre


写真3 NMPDCに展示されているアチョリ族の伝統的司法マト・オプト(mato oput)で使用された器

(2)国際刑事裁判所被害者信託基金の活動
NMPDCの研究員からは、「ウガンダ北部において現在は南スーダンからの避難民への対応が喫緊の課題ではあるものの、今もなおLRAとの紛争によって心身に影響を被った人々が多く生活していることも忘れてはならない」との話があった。このような現状に対し、ICC被害者信託基金は、現地で活動するNGOに資金を提供することで紛争の影響を受けた地域に対する支援を行っている。筆者は、ICC被害者信託基金から資金提供を受け、グルで活動している2つのNGOを訪問させていただいた。ひとつは、ウガンダ北部にて紛争の影響を受けた被害者たちに対するメンタルケアを専門としているCVT 。もうひとつは、同じように紛争の影響を受け、身体的な後遺症を患った被害者への支援(リハビリのサポート、義足の提供等)を行っているAVSI Foundation である。担当者とのインタビューを通し、ウガンダ北部での紛争が、今もなお多くの人々に負の遺産として残されていることを改めて実感することとなった。

ICC被害者信託基金はローマ規程に基づき設置されているもののICCでの刑事司法手続とは一線を画した組織である。ICC被害者信託基金は、裁判所が被告人に対する損害賠償命令を出した場合にこれを執行するreparation mandateと、ICCが管轄権を行使している紛争の影響を受けた地域に対する支援を行うassistance mandateのふたつの役割を担っている(野口 2014)。ウガンダの事例でいえば、オグウェンの倍賞に関する判決は現時点で確定していないため、reparation mandateの取り組みは行われていないが、assistance mandateによって2008年以降現地の上記NGO等に資金を提供している。筆者はICC被害者信託基金の理事長を務められた野口元郎氏から同基金本部職員を紹介いただき、2019年9月にオランダ・ハーグにてインタビューを行った。このときのネットワークから、ウガンダのカンパラにある地域事務所の職員を紹介いただき、今回の渡航にてこれまでのウガンダにおける活動と今後の展望についてのインタビューを行うことができた。ここで印象的であったのは、「活動を開始した当初とオグウェンが逮捕された当初は、ICC被害者信託基金の活動に対する懸念を示す住民もおり、対話が難しい時期もあった。だが、直接および現地NGOを通じた間接的なアウトリーチ活動にも力を入れることで、現在では多くの住民からICC被害者信託基金の活動に対し理解を得られており、受益者の多くは、ICCの刑事司法の取り組みとICC被害者信託基金の取り組みとは目的が異なることを理解してくれている」と語られたことであった

写真4 AVSI Foundation義足の製作所

アフリカ連合と国際的な刑事裁判所
アフリカ連合は、エチオピアの首都アディスアベバに本部があり、筆者が渡航する前週の2020年2月9日、10日にアフリカ連合サミット第33回通常会期が開催されていた。訪問時、街中数カ所にて同サミットを告知し、アジェンダ2063の一環として同サミットでのメインテーマでもあった銃撲滅に関するバナーが掲げられているのを見かけた。また、筆者が宿泊したアフリカ連合から車で10分ほどに位置するホテルでも、エチオピアの国旗とともにアフリカ連合の旗が掲げられるなど、アフリカ連合のアディスアベバでの存在感は決して低いわけではないことが伺えた。

アフリカ連合では、アーカイブやライブラリーを訪問し調査資料の収集を行うとともに、アフリカ連合日本政府代表部の志水史雄大使のお力添えによりアフリカ連合法務部および同委員会副委員長との面会の機会を頂いた。アフリカ連合は、元チャドの大統領に対する国際的な刑事裁判所の設置に関与したり、ICCとは異なる地域的な刑事裁判所の設置を検討したりしている(藤井2019:2016)。インタビューを通し、アフリカ連合によるICCや国際刑事司法の規範に対するアプローチは、政治的な動機だけではなく、法的な解釈も踏まえ、アフリカの意思をアフリカ連合の場を通して形成した結果であることが改めて伺えた。アフリカ連合の役割と存在感がアフリカ内外で増していることの意義とその背景についての考察が今後ますます重要となってくるのではないかと思料される。

写真5 Airport Roadに掲げられたアフリカ連合サミットのバナー

写真6 アディスアベバの中心地に掲げられたアフリカ連合サミットのバナー

写真7 アフリカ連合本部(会議場とNew Building)

おわりに
今回の調査ではローカルなレベルとリージョナルなレベルからの情報を収集することで、今後、国際的な司法介入に対するアフリカのスタンスをより多角的に考察するための土台を構築する素材を揃えることができたのではないかと考えている。また、今回のインタビュー調査を通して、国際的な司法介入や特定のイシューに対し、アフリカの人々はアフリカとしての“アプローチ”やアフリカの解決策(African Solution)を重要視しているというよりは、自分たち自身で意思決定を行うプロセスそのものを非常に重要だと考えているのではないかと感じられた。この点、今後の研究にて精査していくとともに、これからもウガンダ北部とアフリカ連合からの議論に着目しながら文献による調査と関係者へのインタビューを続けていきたい。特に、ローカルな現場でいかにICC被害者信託基金の活動が受容されてきたのか、そのプロセスについてICCが平和構築の文脈で度々言及する「紛争後の社会にレガシーを構築する」との視点から分析を試みたいと考えている。また、ローカル/リージョナルな議論をまとめあげるフォーラムとしてのアフリカ連合の役割や機能についての考察を重ねていくことを計画している。貴重な調査の機会を頂き、当事務局の皆様、調査訪問を受け入れて下さった関係者の皆様に改めて心からの感謝を申し上げる。

参考文献
・野口元郎(2014)「被害者信託基金とその活動」村瀬信也、洪恵子編『国際刑事裁判所 第二版』東信堂
・藤井広重(2019)「司法および人権アフリカ裁判所設置議論の変容——国際刑事裁判所との関係性からの考察—」アフリカレポート57号61-72.
・――(2016)「国連と国際的な刑事裁判書:アフリカ連合による関与の意義、課題および展望」国連研究第17号121-148.

[海外出張報告] 鄭傚民(開発・生業班)ウガンダ共和国・カンパラ 海外出張期間:2019年11月19日〜12月11日

「ウガンダにおけるTVETと訓練生の技術習得」
鄭傚民

(派遣先国:ウガンダ共和国・カンパラ/海外出張期間:2019年11月19日〜12月11日)

 


ウガンダでは労働可能人口の増加率が年4.8%でとても高く、毎年70万人が労働市場に進入している(World Bank,2016:1)。失業者の3分の2が18-30歳で、青年失業は雇用機会の不十分および技術不足が原因とされている(World Bank,2016:11)。このような背景からウガンダでは2008年に国会で「Business, Technical, Vocational Education and Training ( BTVET ) Act」を制定し、2011年にはベルギー技術協力局(Belgian development agency:BTC)および世銀の支援をうけウガンダの教育・体育省( Ministry of Education and Sports)を中心に「Skilling Uganda」というスキル形成に重点を置いた技術訓練に関する計画を発表する。そしてその目標を「資格中心の教育から現場で使える技術教育中心へ、全ての人が受けられる教育へ、学校から仕事現場中心の環境へ、管理主体は政府から公立・私立へ」と掲げた(Skilling Uganda, 2011)。

今回の調査ではカンパラに所在する職業訓練校2か所を訪問し、ウガンダの職業訓練と技術習得に関して関係者へのインタビューおよび参与観察を行った。まず、調査では技術訓練校の理論授業と実習からの技術習得に関わる現状と課題をきくことができた。訪問した職業訓練校は国家により運営され、ドナーなどからの支援もある場所でまだ実習のための機材などは他職業訓練校に比較して整えられているという現状であるにもかかわらず、クラスの性格によっては訓練生の数が多くて実習授業などの時間が限られるということが問題として掲げられた。また2008年のBTVET法により2009年から始まったUBTEB(Uganda Business and Technical Examinations Board)国家資格は理論的な試験の分量も多く、実習の時間が十分ではないという指摘もあった。

 

職業訓練校内と産業現場での技術格差に関しては、技術発達による格差問題などが存在するという指導員の共通的認識があった。訪問したA校はこのような技術格差の問題解決および学生支援のために民間企業との連携体制を整えていた。実際、調査中にこの民間企業でインターン採用や就職に関するワークショップが開かれ、訓練生に企業を紹介し、求める人材像に関して説明しながら質疑応答するなどする場を観察することができた。A校では企業から社員の技術向上のための訓練を依頼されることやインターンシップから帰ってきた訓練生からのフィードバックを受けることなどで技術訓練校と産業現場の技術格差を認識し、対応するということであった。一方、B校はまだ新しく、民間企業とのコネクションはまだなく、これから産学協力を増やしていく必要性を感じているということであった。A校の修了生へのインタビューからも実習時間の少なさや現場で必要な高度な技術の習得が技術訓練校では習得が難しいとされた。

今回、訪問した学校の場合、様々な施設と設備を整えており、指導員は設備が利用可能な能力を持っていて、新しい技術を習得するためにドナー支援などで海外に行く機会もあるなどまだいい環境であったが、このような状況であるにもかかわらず、訓練生の数と技術格差に関する問題をもっていた。これはA校とB校のみの問題ではなくウガンダ教育体育省の戦略と予算支援の不足という政策的な背景につながっていて、一部の他校の指導員をインタビューした結果、地方の方の技術訓練校はより多くの問題を抱えていることが分かった。今後は他職業訓練校に関しても視野を広げ、ウガンダの職業訓練に関する実態をより学術的に詳しく検討していく。

参考文献
Ministry of Education and Sports (2011) Skilling Uganda: BTVET Strategic Plan 2011-2020 World Bank (2016) Country Partnership Framework for the Republic of Uganda

 

[海外出張報告] 中和渚(教育・社会班)ザンビア共和国・ルサカとマザブカ 海外出張期間:2019年3月6日〜18日

「ザンビアにおける子どもたちの遊びと幼児教育の現在」
中和渚

(派遣先国:ザンビア共和国・ルサカとマザブカ/海外出張期間:2019年3月6日〜18日)

アフリカ諸国において就学前教育の拡充が進められている。これまでザンビアにおいては、就学前教育は私立学校にて主に実施されてきた経緯があるが、近年、ザンビア一般教育省のイニシアチブにより、政府系小学校において就学前教育の教室の設置と教員の配置が進められている。ここ数年の公立小学校における就学前教育の設置に関する展開はめざましいものがある。この急速に進められる量的拡大の中で、教育の質は担保されているのかどうかが疑問である。そこで調査者は数年来続けている就学前教育の現状を調べるとともに、学校外で行われる子どもたちのインフォーマルな遊びについてフィールドワークを行い、アフリカの潜在力についてアプローチすることを目指している。調査としては下記の3点を実施した。今回の調査では特に③に注力してデータを収集したため、その内容を以下に報告する。

① 公立小学校を訪問し、特にアートのクラスでどのような遊びや取り組みを行っているのかについて明らかにした。
② 国・郡の教育関係者、研究者、教員と現状や課題、子どもの様子について意見交換を行った。
③ ルサカ州ルサカ郡と南部州マザブカ郡において子どもたち(主に小学生)が学校内外においてどのような遊びを行っているのかを調べた。

③ について子どもたちの日常生活の中で、彼らがどのような遊びを行っているのかを大人・子どもたちに聞き取りし、観察した。特に、10-14歳の子どもたちの遊びに参加して、様々な遊びについて情報を得た。その結果、女児は様々な手遊びと歌を組み合わせて、身体的な遊びを行っていた。ザンビアの文化的な舞踊や歌に類似した動きもあれば、英語の歌を歌う場合もあった。また、遊びの中で、自然と3―4名の小グループのリーダーになったり、ルールを確認したりして、様々なコミュニケーションを行っていた。ルールは複雑だが、勝ち負けがはっきりしているもの・そうでないものがあった。女児グループは育児や家事をしながら合間に遊んでいた。男児はザンビアで人気のサッカーやフットサルを行っており、女児のように育児を手伝う姿は見られなかった。男児らは女児らが行う歌と手遊び、人間綱引きのような遊び、宙返りなど、女児にくらべて激しく身体を使う遊びを行っていた。放課後に子どもたちは家で遊んだり、学校に戻ってきて遊んだりしていた。遊具がある学校・場所に関しては、ブランコやタイヤ渡り、一本橋渡りなどしている子どもたちも少なくなかった。高校生になるとバレーボール、バスケットボールなどの球技を行ったり、放課後には小グループで集まって会話したりする姿が見られた。

今後は③についてデータを分析し、学校内の授業で行われている遊びと、学校外で行われている遊びを比較したりして、学校外における子どもたちの活動や遊びについての良さや価値、学校教育に対するインプリケーションを明らかにしたい。

調査写真

[海外出張報告] 宗村敦子(開発・生業班)南アフリカ共和国・西ケープ州 海外出張期間:2019年2月9日〜17日

「1920年代ロンドン市場への南アフリカ果物輸出:南半球Fed-Farmsのもつ国際価格情報提供ネットワークの意義」
宗村敦子

(派遣先国:南アフリカ共和国・西ケープ州/海外出張期間:2019年2月9日〜17日)

はじめに
南アフリカ西ケープ州における農産物加工産業は製造業の中でも歴史が古く、第一次世界大戦直後にまでさかのぼることができる。そうした現地製品は当初国内消費向けであったとはいえ、1920年代になると西ケープの地中海性気候を生かした果物加工品はまずロンドンに出荷され、戦間期にはヨーロッパ市場が購買シェアの半数を占めるに至っている。本研究ではその変化の着眼点として、1921年にロンドンで設立登記された南アフリカ・ニュージーランド・オーストラリア産品専門の農産物輸出会社「海外農家共同組合連合(通称Fed-Farms)」をとり上げたい。同社は上記の三国が共同で事務所を持ち「季節性の違いを利用して南半球の農産物輸出を促進する」ことを目的としていた。同社の中では、西ケープに果物栽培事業を持ち込んだカリフォルニア出身の苗木商ハリー・ピクストン(H.E.V Pickstone)が立ち上げの中心的人物である。

ところで南アの果物とその加工品輸出は、 その産業当初から必ずしも奢侈品としての地位を確立していたわけではない。そうした場合、輸出国における輸出組合が品質の画一的管理等を担うことになろう。南アの事例でも上述のピクストンが西ケープでも南アフリカ果物輸出組合を設立しこの役目を担っていたが、それだけではなく、当時の宗主国で世界最大の果物マーケットがあるイギリスでも同様の会社としてFed-Farmsを設立していたのである。このように果物輸出組合と提携し、ロンドンに事務所をおいていた 同社の輸出促進事業とはどのような活動実態だったのか。本調査はその業務で最も重要な、ロンドンでの価格取引情報の南アへの発信に焦点を絞り、以下のような資料を使って会社設立による農産物取引へのインパクトを明らかにしたい。

資料紹介
South African Fruits Grower, Vol. X、January- December, 1923
1921年に設立されたFed-Farmsは1923年以降、南ア現地での農産物輸出業務に携わる南アフリカ果物輸出組合(Fruits Exchange of South Africa)に情報提供をする関係にあった。その主たるメディアである月刊誌South African Fruits Growerには、
・農産物の栽培技術に関する情報
・イギリスにおける果物取引商による輸出状況の報告書
・他のコモンウェルス諸国の果物輸出シーズンやイギリスへの寄港情報
・国内外の農産物価格
などが掲載されていた。

写真:果物の価格情報欄とFed-Farmsの署名記事
South African Fruits Grower, Vol. X、July, 1923, p. 252.(南アフリカ国立図書館所蔵)

この内容のうちFed-Farmsが関わった価格情報欄の構成は(1)ケープ港から出航する船の名前、(2)イギリス本国の到着先、(3)荷揚げされた時の貨物の状態、および(4)港での箱やトレーごとの価格情報、のとおりである。またその執筆者はロンドンかヨハネスブルクに支店を置くエージェント会社の社員であり、個人執筆者名は異なるものの、どの月も同じ5社がそれぞれ果物別に(1)〜(4)について報告を掲載した。これらの情報の多くは海底ケーブルを使って届けられ、その結果産業雑誌に掲載されたのはたいてい1ヶ月後であった。

1923年の刊では2月以降、エージェントらは輸出状態についての写真や助言等を掲載していたが、 6月以降そのページが価格情報に占められた。現地果物の収穫期にあたる12月から2月にかけてとくに集中して交信文が紙面で流される「価格情報欄」は1923年から登場したもので、Fed-Farmsの名前も見られる。写真のようにエージェント会社とFed-Farmsの名前が並んでいるが、特徴的なのは、イギリスでの価格情報だけでなく、オーストラリア等の出荷時期を並んで報告している点にある。つまり同会社の報告書には、ただイギリス本国と南アという本国・植民地間の市場情報だけではなく、他のコモンウェルスと出荷時期が重ならないようにする等の工夫が施されていた事もわかるのである。

おわりに
以上のようにこうした記事からは、「植民地産物の販売促進活動」という目的の実態として、国際取引価格についてもっとも専門的なとしてエージェントとしてのFed-Farmsの姿が伝わってくる。それではどのようにしてFed-Farmは収益を上げてきたのだろうか。筆者は今後、イギリス側で同じ商品がどの価格で取引され、南ア側での情報と照らし合わせた時にどれくらいの「情報の正確さ」があったのか、もしその数字に差がありそれを時系列的に見たとき、商品価格が投機的な動向を示していないかなどを検討していきたい。

また今回の資料収集ではピクストンについての個人資料を手にいれることができなかったが、ケープタウン大学図書館からの紹介をもらえたこともあり、今後セシル・ローズの事業人脈を探りながらFed-farmsのイギリスとの関係を掘り進めたい。

[海外出張報告] 山本めゆ(対立・共生班)タンザニア・ダルエスサラーム 海外出張期間:2018年9月17日〜28日

「アフリカ-アジア関係研究の現在とその課題」
山本めゆ

(派遣先国:タンザニア・ダルエスサラーム /海外出張期間:2018年9月17日~28日)

活動概要
アフリカ-アジア関係研究は、「アフロ-アジア関係研究」「アフラシア研究」などさまざまな呼称があるが、近年飛躍的な前進を遂げている。重要な成果としては、アリ・マズルイとセイフディン・アデム編『Afrasia: A Tale of Two Continents』(Mazrui & Seifudein 2013)や、ラポーゾ、アラセとコーネリセン編『The Routledge Handbook of Africa–Asia Relations』(Raposo, Arase & Cornelissen 2017)が挙げられるだろう。大規模な学術研究ネットワークや国際研究集会も設立・開催されている。先鞭をつけたのはオランダのライデン大学の構想で、2012年にザンビアで開催されたラウンドテーブル会議において「The Association for Asian Studies in Africa (A-ASIA)」が誕生、2015年には第1回会議「Africa-Asia: A New Axis of Knowledge」(於ガーナ大学)が実現した。またドイツのフランクフルト大学でも、2013年に「Africa’s Asian Options (AFRASO)」が誕生している。こちらはマレーシア・マラヤ大学のAfrica-Asia Development University Network (AADUN)との連携のもと、2014年にはクアラルンプールで国際会議が開催された(Iwata 2014)。日本においては、2018年に「Japan Society for Afrasian Studies」が発足している。アフリカ-アジア関係に関連する論考としては、高橋(2017)や峯(2017)もある。

今回のタンザニア・ダルエスサラーム訪問の目的は、このアフリカ-アジア関係研究の最前線を調査することであり、主に2つの活動を行なった。

①「Africa-Asia, A New Axis of Knowledge – Second Edition」(於ダルエスサラーム大学)への参加・アフリカ-アジア関係に関連する研究動向の調査と研究者とのネットワーク構築
「Africa-Asia, A New Axis of Knowledge」の2回目にあたる会議で、今回は56ヶ国から約400人の研究者が参集、約100のパネルやラウンドテーブルが開催された(注1)。報告者自身も「Law Courts and Legal Intermediaries」というセッションで「Beyond an Atlantic-Centred Paradigm of Racism: Construction of Whiteness and Asian Mobilities in the Historiography of South Africa」という報告を行なった。

学会中、アフリカ人研究者たちとの会話からは、アフリカ-アジア関係研究の取り組みでありながらライデン大学がこのネットワークのイニシアチブを取っている状況に対して、感謝とともに疑問や懸念の思いも共有されていることが伝わってきた。今後はこれが大きな課題となっていくことが見込まれ、アジア発の活動にもさらなる期待が寄せられるようになるだろう。また、この会議のキーノート・スピーカーのひとりは、京都精華大学学長のウスビ・サコ先生だったが、いくつものラウンドテーブルで精力的に報告・発言されたうえ、ランチタイムやレセプションのような場でも引っ張りだこで、サコ先生がすでにアフリカ-アジア関係研究の象徴になっていることを体感することができた。

② アフリカにおけるガンディー像に関する予備的調査
近年、アフリカ内外でガンディー像に対する撤去要求運動が展開されており、国際メディアでも大きく報じられるようになっている。もっとも活発なプロテスト運動が展開されてきたガーナ大学では、2018年12月にキャンパス内のガンディー像が撤去された。

このような現象の背景としては、以下の3点が考えられる。a. インドが文化交流の一環としてアフリカ各地にガンディーの銅像や胸像を寄贈している、b. 南アフリカ・ケープタウン大学で発生したセシル・ローズ像撤去要求運動(牧野2016)の伝播、c. 南アフリカにおけるガンディー研究の進展により、ある時点までのガンディーがヨーロッパ由来の人種観をそのまま受容し、アフリカ人のレジスタンス闘争を弾圧する側に立っていたことなどが知られるようになった(Desai & Vahed 2016)。

ダルエスサラーム大学にも2014年にガンディーの胸像が贈られ、Council Hallに据えられたジュリウス・ニエレレの胸像の横に並べられている。今回キャンパス内で調査を行なった限りでは、この胸像に対するプロテスト運動や批判は起きていないという。また、インドからダルエスサラーム大学に派遣されているインド人研究者2名にインタビュー調査を実施したが、「なぜガンディー像なのか」という問いについては、ガンディーが南アフリカに21年間居住していたことに加え、「中国が各地に<孔子>を建造しているから」という返答もあり、インドが中国の対アフリカ政策を強く意識していることが伝わってきた。実際、2018年5月には、インドがアフリカ21ヶ国に「ガンディー・コンベンション・センター」を建設するという構想も発表されている(注2)。ガンディー像をめぐるプロテスト運動は、今後さらに拡大する可能性もある。アフリカ-アジア間の真の友情のためには、非調和的な過去にも向き合っていく必要があるだろう。

(注1) https://icas.asia/en/africa-asia-new-axis-knowledge-second-edition
(注2) https://economictimes.indiatimes.com/news/politics-and-nation/india-takes-convention-centre-route-to-africa/articleshow/64153493.cms

Desai, A. and G. Vahed, 2016, The South African Gandhi: stretcher-bearer of empire, New Delhi: Navayana.
Iwata, Takuo, 2014, “Network Formation Challenges for African Studies in Asia”, 『立命館国際研究』27-1: 95-115.
牧野久美子, 2016,「『Must Fall』運動を振り返る−2015年の南アフリカにおけるプロテストの軌跡」, 『アフリカレポート』No.54, 日本貿易振興機構アジア経済研究所: 44-49.
Mazrui, A. A. and S., Adem, 2013, Afrasia: A Tale of Two Continents, Lanham, Md.: University Press of America.
峯陽一, 2017, 「アフラシアを夢見る−アフリカとアジアの架橋を目指す国際関係論」, 遠藤貢・関谷雄一編『東大塾 社会人のための現代アフリカ講義』, 東京大学出版会: 243-268.
Raposo, P., D. Arase, and S., Cornelissen, 2017, The Routledge Handbook of Africa–Asia Relations, London: Routledge.
高橋基樹, 2017, 「アフリカと日本のかかわり−そのあり方と新しい展開」, 遠藤貢・関谷雄一編『東大塾 社会人のための現代アフリカ講義』, 東京大学出版会: 105-134.

「Africa-Asia, A New Axis of Knowledge – Second Edition」では、ウスビ・サコ先生に加え、タンザニア・ムヒンビリ健康科学大学を2013年に退官したZulfiquarali Premji教授がキーノート・スピーチを行なった。

Council Hallに並ぶニエレレとガンディーの胸像。ガンディーの胸像を寄贈したのはIndian Council for Cultural Relationとある。2018年10月にはガンディーの生誕150年の祝賀会も実施された。