「ヨルバ語による出版事情を文献から確認する」
塩田勝彦
(派遣先国:オーストリア共和国/海外出張期間:2020年2月29日〜3月9日)
今回の調査は、日本でもナイジェリアでもなかなか全貌を掴みにくい、20世紀前半のヨルバ語出版事情を調べることを目的とし、アフリカ研究所のあるウィーン大学とその図書館を訪れました。
ヨルバ語は19世紀に文字化されますが、当時はまだ標準ヨルバ語というものも存在せず、そもそもヨルバ語という名前すら一般的ではなかったのですが、キリスト教宣教師が布教のため標準語とその文字を作り出し、20世紀になるころには広く普及していたと考えられています。
アフリカ諸語の比較研究黎明期に出版された、ケッレの『ポリグロッタアフリカーナ』では、現在のヨルバ語に相当する言語群を「アク語」と名付けており、そこには13言語を収録しています。「ヨルバ語」はその中の一つとしてリストアップされており、『ポリグロッタ…』が出版された1853年には、「ヨルバ語」という名前は一般には受け入れられていなかったことがわかります。ケッレの記述には、イジェブ語(現在はヨルバ語の方言の一つとみなされている)の話者が、ヨルバという名前に拒否感を表している様子が描写されており、ヨルバ民族が作られる前の民族感情が垣間見え、大変興味深く感じました。
ヨルバ語による出版物は、標準語化の完成する19世紀後半から少しずつ現れますが、初期の出版物はキリスト教の宣教パンフレットや、ヨルバ語の教本など、宗教を含めた広い意味での教育に関するものがほとんどだったようです。文学作品と呼べるものは、新聞に掲載される詩が中心で、比喩を多用した称賛詩が多く、それとは逆に批判(時にはあからさまな誹謗中傷)を目的とした詩も見られます。新聞は政治経済のニュースを伝えるだけでなく、創作の発表の場としても見なされるようになり、1929年には初めての小説Iwe Itan igbesi Aiye Emi Segilola「セギロラ、私の人生」(J.B.トーマス著)が発表されます。
ヨルバ語による出版活動は1930年に最初のピークを迎えますが、その後は大恐慌、第二次大戦などの影響で下火になり、1950年代に再び上昇機運を迎えます。
50年代は、独立へ向けて民族意識が高揚し、ヨルバ語のみならず、ハウサ語、イボ語など、ナイジェリアの多くの言語が活発な出版活動を始める時代でした。こうした気運は1960年の独立以降も伸び続けますが、1964年をピークに徐々に冷え込み、1970年代には1930年代と同じレベルまで落ちてしまいます。
このような出版気運の低下はいったい何に起因するのでしょうか。一つに、独立から10年の区切りを迎え、盛り上がった民族意識より、経済に結びつく英語を選択するという、ナイジェリア人の現実的な選択があるでしょう。戦後に現れた教養あるナイジェリア人作家たちも、そのほとんどが創作の言語として英語を選択しています。ヨルバ語による創作はもっぱらポピュラー音楽家や詩人など、民衆に近いアーティストによるもので、それらの表現は文字ではなく、声によって作り出されるものでした。このようにしてヨルバ人の創作は、英語で書き、ヨルバ語で歌うという形に定着していきました。
最後にウィーンの様子についても少し触れておきたいと思います。3月初旬のウィーンは、コロナウイルスはまだ外国の話という感じで、テロ防止の意味からマスクの着用が法律で禁じられていたこともあり(現在は合法)、人通りも人の表情も通常どおりで、大学も図書館も開いていました。ヨーロッパでアジア人に対する視線が厳しくなっているという噂もありましたが、そういうこともまったくなく、通常通りの調査活動が行えたという点で、1週間という短い滞在でしたが、今回は貴重な経験をすることができたと思っています。