[海外出張報告] 山崎暢子(開発・生業班)ウガンダ共和国 海外出張期間:2020年2月4日〜29日

「ウガンダ北部の農村における紛争下の食料確保―現在の生計維持との比較から―」
山崎暢子

(派遣先国:ウガンダ共和国/海外出張期間:2020年2月4日〜2月29日)

渡航の目的はふたつあり、ウガンダ北部の農村における人びとの紛争下での暮らしを記述すること、そして、現在の生計維持の実態を解明することである。現地調査は、西ナイル準地域(以下、西ナイル)アルア県南部の農村で実施した。

本調査における聞き取りは、アミン政権が崩壊した1979年4月から、現ムセベニ政権が成立する1986年1月までの、政変が相次いだ期間に生じた紛争と、この時期の人びとの食糧確保の方法を対象とした。アミン政権期にウガンダ国外へ亡命したオボテ大統領をはじめとする反アミン勢力は、解放軍(UNLA)を組織して1979年にタンザニア軍とともに首都カンパラへ進み、アミン政権を倒した。これに対してアミン政権下のウガンダ国軍の元兵士らは反政府勢力を組織して対抗したが、暫定政府軍‐反政府勢力という対立構造だけではなく、混乱に乗じて暴徒化した解放軍兵士やゲリラ集団などによる略奪行為や住民に対する襲撃も各地で頻発し、多数の一般市民までもが巻き添えになった。その結果、大勢の人びとが、隣国のスーダン南部やコンゴ民主共和国(当時のザイール。以下、DRC)へと流出した。難民定住地で支援を受けながら、避難生活を送る人びとも多くいたなかで、調査対象とした村人たちは当時、DRCに暮らす親族や知人、あるいは教会をたよって身を隠していた。

アルア県の調査村では、当時の国営放送「ラジオ・ウガンダ」をとおしてアミン政権崩壊の一報を耳にして避難した人もいれば、カンパラやエンテベからアミン政権下の国軍兵士が西ナイルへ戻ってきていたこと、そしてそれを追って西ナイルへ解放軍(暫定政府軍)が北進してきたことから危険を感じてウガンダを離れた人もいた。

1970年代末以降の紛争を経験した村人にDRCでの避難中の食事について尋ねたところ、「いま食べているものとほとんど変わらなかった」とのこたえが異口同音に聞かれた。具体的には、こんにち西ナイルでひろく食べられているキャッサバ粉を湯で練った固粥(主食)と、葉菜類やマメ類を利用したソース(副食)である。避難先の親族が食事を提供してくれるのは恵まれたケースであり、多くの村人は避難先のDRCからウガンダの村まで自力で戻って食料を確保するか、ウガンダに留まった夫や親が農産物をDRCまで運んで食料を利用するか、あるいは、DRCで農作業を手伝い、その対価として食料を分けてもらうなどしていた。

避難中の生活に必要な日用品として、全員が石鹸と灯油、紅茶、そして塩に言及した。これらの消耗品の購入には現金が必要になる。ただしDRCではウガンダの通貨が使えなかったので、農作業の手伝いをして日銭を稼いでいた。急ぎで現金が必要な場合には、雇い主に前払いしてもらってしのぎ、その分の仕事をし、返済に充てた村人もいる。仕事は、必ずしも1日で終わるわけではなく、数日続くこともあれば、雇い手が必要とするときにだけ出向くというものだった。そうして得た現金で、必要な日用品をDRCの市場で購入した。ウガンダ国内では各所に暫定政府やオボテ政権による交通規制が敷かれていて、DRCからの帰還後にもアルアの町へ行く機会は限られていて、村人が利用する移動手段は、ほとんどが徒歩か自転車であった。2020年現在、徒歩や自転車で町まで出かける人は少数で、多くが小型バスかトラックを利用している。市のたつ日には、近くを大型のトラックが頻繁に通るが、これらはおもに仕入れた荷物を大量に運ぶ商人が利用しており、村人が乗車することは少ない。

キャッサバは1920年代に西ナイルへ導入されてから徐々に拡大し、その栽培は1940年代に入ると主食であったシコクビエの栽培を上回った。現在、ほとんどの世帯がキャッサバを主要な主食材料としており、乾季にあたる調査期間では、調査村の半数以上の世帯が村内の畑でキャッサバを栽培していた。村内の畑でキャッサバを栽培していない場合でも、村外の畑で栽培するか、あるいは親族が栽培しているキャッサバを分けてもらっている。

調査村において全世帯が農業を主たる生業とするなか、ガソリン販売やテーブルクロスの作製と販売、大工などの副業を営む世帯もある。どの世帯も、村内の畑で栽培している作物は自家消費が中心であるが、なかには余剰分を市場や庭先で販売して、現金を得ている世帯がある。また、村外に所有または借用する畑で、販売用の作物を大規模に栽培する世帯もあった。農繁期以外にはアルアの都市部や、カンパラやエンテベなどで就労し、農繁期には村へと戻って来ている村人もいた。さまざまな手段をとおして得られた現金は、食材・日用品の購入や転売目的の農作物の購入のほか、子どもの学費の支払いに充てられている。魚や肉、そのほかの食材をはじめ、ふだん履いているビニールのサンダル、肌着や医療品、文具、木材などは、村から徒歩で30分もかからない小さな町で手に入る。加えて、農作業で使う犂や鍬、長靴や衣類、ラジオなどの日用品のほか、自転車の修理などは、週2回ひらかれるウガンダとDRCの国境線上の市場(村からは徒歩で1時間半ほど)で入手が可能である。それでも入手できない物品やサービスについては、自分でアルアの町に出かけて購入・利用できるが、たいていは交通費の工面に苦労するので、用事で町へ出かける人に言付けをして調達してもらってくる様子をよく見かけた。

現在アルア県は約78万の人口を抱え、ウガンダ国内では4番目に人口密度が高く、県の総人口の9割超が農村部に居住する[UBOS 2014]。調査村でも1970年代に比べて世帯数が大幅に増え、可耕地の面積は目に見えて小さくなった。アルア県での主要道路の舗装はようやく2018年ごろに終了し、2021年にはアルア県都にある二つの郡が市として統合されることが予定されている。これにともない、この2~3年で小型の乗り合いバスのターミナルや中央市場は改装され、宿泊・商業施設を併設したスタジアムの建設も始まり、西ナイル以外の地域からも労働者が流入している。

1979年以降の紛争でDRCへ避難し、1985年にアルア県に戻ってきたある男性は、町の変わりようについてこう述べた。「私がアルアに戻ってきたとき、町は一面、焼け野原だった。どこもかしこも建物は破壊されていて、私たちのように恐る恐る戻ってきた人がまばらにいるだけだった。『シティ』になることでアルアには、メリットもデメリットももたらされるだろう。見ものだよ」。再開発の波に沸くアルア県ではいま、かつての紛争の傷跡は見る影もなくなりつつある。農村の住民の都市部へのアクセスも増えるなか、西ナイルの人びとの生活がどのように変化していくのか。そして、人びとが過去の紛争とどのように折り合いをつけていくのか、これからも見つづけていきたい。

UBOS. 2014. National Population and Housing Census Main Report. Uganda Bureau of Statistics.


上空から見たアルア県郊外の様子


ウガンダとDRCの国境線上に広がる市場。週2回ある市の日には近隣農村の住民のほか、都市部から大型車両で往来する商人らで賑わう


建設中のアルア中央市場

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