日 時:2012年7月14日(土) 11:15〜14:45
場 所:京都大学稲盛財団記念館3階小会議室
プログラム
11:15-11:45
大野哲也(桐蔭横浜大学)
葛藤する二つの正義―ケニア・カカメガの森の保存に反対する運動から―
11:45-12:15
岡野英之(日本学術振興会特別研究員/大阪大学大学院国際公共政策研究科)
いかに武力紛争は波及するか―シエラレオネ・リベリア紛争にみる武装勢力の同盟網―
12:15-12:45 休憩
12:45-13:15
加藤太(信州大学農学部食料生産科学科・JSPS特別研究員)
氾濫原をめぐる農民と牧民の対立の回避と協調関係の発展
―タンザニア・キロンベロ谷の事例―
13:15-13:45
中沢美保子(神戸大学大学院国際協力研究科博士課程)
タンザニアにおける遺児の生活状況と教育への影響
13:45-14:15
原子壮太(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科研究員)
焼畑耕作における出作り集落の離合集散と森林資源の共有
-タンザニア南東部の山村の事例-
14:15-14:45
山本めゆ(京都大学大学院文学研究科博士課程)
ポスト・アパルトヘイトの南アフリカにおける人種分類の再編成
―華人コミュニティ100年間の経験に注目して―
要旨
葛藤する二つの正義
―ケニア・カカメガの森の保存に反対する運動から―
大野哲也(桐蔭横浜大学)
世界の多くの地域では、小さなコミュニティをいかに活性化させるのかという問題に苦慮している。そのような状況において、それらのコミュニティにある独自の自然や文化を国立保護区にして地域活性化を目指すということが試みられている。政府が自然や文化を国立保護区に指定して、それを観光資源化するのである。
国立保護区には、それ以外にも大きな意味があった。国立保護区の「保護しながら発展を目指す」という理念は、それまで多くの国で維持されてきた「開発か、保護か」という二項対立図式とは大きく異なっていたからである。国立保護区が観光資源化されることで、自然や文化を破壊することなく、保護しながらコミュニティを発展させることができる可能性が開かれたのだ。
ケニアの西部州にあるカカメガの森は国立保護区に指定されている。しかしそこでは、その指定に対して反対を表明している人びとが存在している。なぜ彼らは反対するのだろうか。このような疑問を出発点として、本発表では、反対派の論理を明らかにしながら、小さなコミュニティを活性化するための可能性について、従来の人類学的研究とは異なった視点から考察を進めていく。
いかに武力紛争は波及するか
―シエラレオネ・リベリア紛争にみる武装勢力の同盟網―
岡野英之(日本学術振興会特別研究員/大阪大学大学院国際公共政策研究科)
リベリアで紛争がはじまった1989年以降、その周辺国(シエラレオネ、コートディヴォワール)も武力紛争に巻き込まれている。2012年現在でもコートディヴォワール=リベリア国境において武装集団による襲撃事件がしばしば見られる。紛争は国境を越えて拡大し、一国の紛争が終結しても、隣国では紛争が継続する形で長期化している。いかに紛争は国境を越えて波及するかを探るため、発表者はリベリアとシエラレオネにおいて実際に紛争を経験してきた戦闘員や司令官のライフヒストリーを聞き取ってきた。
シエラレオネ紛争(1991-2002年)では、メンデ人により形成されたコミュニティ・レベルの自警組織カマジョー(Kamajor)がカバー(Ahmed Tejan Kabbah)政権によって組織化され政府系民兵として活動した。しかし、クーデターが発生し、カバー政権が亡命すると、カマジョーは軍事政権の打倒とカバー政権の復帰を掲げ、武力闘争を開始する。本研究は、カバー政権が覆された1997年5月から復帰を遂げる1998年3月までのカマジョーの活動を追う。カマジョーはこの頃、自らを強化するためにリベリアとの国境地域を利用した。この頃、リベリアとシエラレオネとをまたがって活動してきたメンデ人が既存の人脈を用いカマジョーを強化していたことがわかる。
国境を越えた紛争の波及には国境を越えた人脈が密接に関わっている。本発表では、ごく短期間に見られたひとつの武装勢力の変化に注目することにより、ひとつの紛争と隣国の紛争が連関しあっている様子を詳細に検討する。
氾濫原をめぐる農民と牧民の対立の回避と協調関係の発展
―タンザニア・キロンベロ谷の事例―
加藤 太(信州大学農学部食料生産科学科/JSPS特別研究員)
近年、サブサハラ・アフリカでは湿地の開発が急速に進められており、水田や放牧地としての利用が進んでいる。タンザニア中南部に位置するキロンベロ谷は、面積約11,600 km2の広大な内陸氾濫原である。ここでは、1980年代以降水田面積が急激に増加したことで、現在では国内コメ生産量の約1割を生産する大稲作地帯が成立した。また、スクマと呼ばれる牧民が放牧地と水田を求めて移住してきたことで、同地域は家畜、特にウシの生産地になった。
同地域は、これまで水田と放牧地が拡大してきたため、もともと居住していた農民と移住してきた牧民の間で土地争いが頻発するようになった。一時は暴力事件を伴う民族集団間の対立が見られる事態になったが、近年は協調関係もみられるようになってきた。
この背景には、両者の間に牛耕を媒介とした関係が構築された点や、中立な意見を言う両者の「老人」が対立する両者の仲裁に当たったことがあげられる。同地域では老人を敬う習慣や家畜の恩恵など、地域に潜在化していた価値観、技術、資源などが必要に応じて顕在化してきたことが対立を回避し、協調関係を発展させることにつながったといえる。
タンザニアにおける遺児の生活状況と教育への影響
中沢美保子(神戸大学大学院国際協力研究科博士課程)
タンザニアではHIV/AIDSの蔓延などにより、遺児(本研究では「少なくとも片親を亡くした18歳未満の児童」と定義する)やその他の脆弱な児童が急速に増加していると言われており、タンザニア本土では約10%の児童が少なくとも片親を亡くした遺児であると考えられている(TACAIDS,2008 Tanzania HIV/AIDS and Malaria Indicator Survey 2007-08)。こうした遺児の社会経済的状況はより脆弱である場合が多く、特に教育に対する影響は深刻な問題である。
一方で、HIV/AIDSの感染が拡大する以前から、タンザニアでは遺児であるか遺児でないかに関わらず様々な理由から親戚が子供を引き取るケースが見られており、遺児が急増する現在もこのような親類のネットワークがショックを吸収していると言われている。このネットワークの存在は、初等教育の就学率に関して遺児とそれ以外の児童との間に大きな差異がないことの理由としてしもしばしば挙げられてきた。
本研究では、2011年12月から2012年3月にかけてタンザニアの大都市及び地方都市で行ったフィールド調査をもとに、このような脆弱な児童に対する包摂の仕組みが、教育との関係の上でどのように機能しているのかを明らかにし、共生のための潜在力について考察する。
焼畑耕作における出作り集落の離合集散と森林資源の共有
-タンザニア南東部の山村の事例-
原子壮太(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)
タンザニアでは1970年代後半に集村化政策が実施され、山野に散居していた小集落は政府が定める村に集められた。政府はその集住村に社会サービスを整えていったが、財政難によってその体制は間もなく頓挫した。政府は1986年に経済を自由化し、2000年頃からは地方分権化や貧困削減政策をすすめていった。
タンザニア南東部大地溝帯の山麓に位置する調査地でも、焼畑を生業としていた小集落が集められ、様々な民族集団・クランが同居することになった。彼らの生活様式は2年ごとに畑と住居を移動するものであったが、定住化によって集落周辺の林が集中的に開墾されるようになった。これに先立つ1972年頃、この地域に自生するタケが一斉開花し、その種子拡散によって焼畑跡地はまたたく間に竹林に変わった。竹林での焼畑造成には手間がかかるため、彼らは竹林の外側に広がる森林地帯に小さな出作り集落をつくって従来の焼畑耕作を続けていった。2000年代に入ると外部との道路が整備され、僻地の集落にも市場経済が浸透していった。彼らは集住村に屋敷を構え、政府が提供する社会サービスや市場とのつながりを確保しつつ、竹林の拡大によって遠隔地化・狭小化した森林を耕作していった。出作り集落の構成員は流動的で、耕地を移動するたびに離合集散していたが、それは森林資源の共有と、密集した居住にともなう住民間の緊張を緩和するのに貢献していた。
ポスト・アパルトヘイトの南アフリカにおける人種分類の再編成
―華人コミュニティ100年間の経験に注目して―
山本めゆ(京都大学大学院文学研究科博士課程)
アフリカにおける華人という移民マイノリティ集団は、20世紀初頭に初めてのカラーバー導入のきっかけを作るなど、少数者ながら南アフリカ社会と人種政策に影響を及ぼしてきた。民主化以来、南アフリカのエスニック・マイノリティにとっても和解が重要な課題となってきたが、華人もまたアパルトヘイト期の記憶をめぐってコンフリクトの渦中にある。今回の報告では、主にこれまでの文献調査の成果をもとに、南アフリカの人種主義研究において華人に注目する意義について報告したい。とりわけ1)19世紀末以来の華人の地位の変遷、2) 華人コミュニティが「black」に再分類された 2008年のプレトリア高裁判決とその影響に注目する。