日 時:2011年11月26日 (土) 15:00~17:00
場 所:京都大学楽友会館
プログラム
15:00-17:00 遠藤貢(東京大学)
ソマリランドにおける「下からの」秩序実現の取り組み
報告
1991年1月26日にソマリアでシアド・バーレ政権が崩壊すると、同年5月18日に同国北西部に位置し旧イギリス領であったソマリランドが、「ソマリランド共和国」として独立宣言をした。ソマリランドは現在にいたるまで、国際社会から「国家」としての承認を得ていないが、混乱が続く南部ソマリア地域に比べて一定の社会的・政治的安定を確保しているとの評価がなされている。発表では、1990年代にソマリランドで国民レベルの「和解」を目的として開催された2つの会合に焦点があてられた。いずれも、地域レベルで小規模な会合を積み重ねるプロセスの中から実現した「国民」レベルの会合である。とくに1993年1~3月のボラマ会議には、「ソマリランド全体の運命を決する会合」という認識の下に、すべてのクランの長老150名が参加した。会合は多数決による決定を形式としては採用していたが、「votingは fightingと同じだ」という考えが出席者に共有され、話し合いをとおした全会一致で決議をするという方針がつらぬかれた。またその際には、通常対立しあっていると思われるクランが相互に交渉し、連携する形で会合が進展した。結果として、「ソマリランド・コミュニティ、安全と平和憲章」と暫定憲法的な色合いをもつ「国民憲章」いう二つの憲章が制定された。会合後には武装解除や職業訓練も進められ、国内に一定の秩序形成が進んだ。この会合は、国際組織からの援助があったものの、資金の大部分はソマリランダーが自主調達する形で開催されたものであり、外部関与をわずかしかともなわない、ローカル主導で実現した会合であった。これが可能になった背景には、ソマリの慣習法や長老会議の伝統、そして問題解決を図る際に交渉や対話を重視するpastoral democracyの存在などを挙げることができる。
討論では、ソマリの慣習法や長老会議と植民地化以降の社会変容との関係について議論がなされた。ソマリランドが地政学的にどのような位置にあり、どの程度の介入が植民地時代になされたのか、それがソマリの社会―政治構造にどのような影響を与えてきたのか、といった議論である。また近代化の過程で、長老制社会では年長者の権威が教育を受けた若者らによって浸食されることが他地域から報告されているが、ソマリランドではそのような事実はないのか、といった点も議論の対象となった。また、1991年以降の和平プロセスでディアスポラが果たした役割についての質問がなされ、どれほどの資金が実際に流入したのか、そのような資金の流れがクラン間のポリティクスにどのような影響を与えたのか、ディアスポラの関与が新たな対立軸をつくりだした側面はないのか、といった指摘がなされた。さらに、今後ソマリランドが国際的に承認される可能性はあるのか、その過程で(若者や女性が不在の)長老会議が主体となった意思決定のあり方を国際社会が「デモクラシー」として認知しうるのか、といった点も論じられた。(佐川徹)