(派遣国:ボツワナ・ザンビア/派遣期間:2014年1月~2月) |
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「伝統的首長を国政の中でどのように位置づけるべきか?:ザンビアの取り組み」 島田周平(東京外国語大学) |
キーワード:伝統的首長, 伝統的権威, 地方分権 |
研究の背景と目的植民地政府にとって、王や首長(Chief)など、伝統的権威の扱いは重要な関心事であった。それは独立政府にとっても同様である。一党制支配が長く続いたザンビアでも、政府にとって伝統的権威の取り扱いには常に細心な注意が必要な事項であった。 開発援助の専門家の間でも、伝統的権威とどのように付き合うのかは重要な問題であった。伝統的権威が私的権益のために開発を利用したり阻害したりした事例には事欠かないため、一般に開発実践者の間で伝統的権威の評価は低い。しかしこの厄介な伝統的権威の権力が、社会の紐帯の維持にとって一定の役割を果たしてきたことは否定出来ない。 最近幾つかの国で、伝統的権威の権力のあり方が再び注目されている。1つは、地方分権化を進める中で、末端行政レベルで地方の伝統的権威がもつ権力との調整が必要になってきたという実務的問題からであり、もう1つは「アフリカ的民主主義」の模索から注目されてきていると言える。独立後半世紀を迎えたアフリカでは、いまも市民(社会)は育っていないといわれている。引き続き西洋型の市民社会を希求するのか、あるいはそれに代わる新しい「別の形の社会」を模索するのかをアフリカが自問しはじめた証かも知れない。 植民地支配以降一貫して負のレッテルを貼られてきた伝統的権威を、それが持つ暗部を理解しつつ、行政機構の中に正式に位置づけて国の発展のために利用するとすればどのような方法があるのであろうか。これは、本科研の主題に沿って言い換えれば、民主主義のなかに「アフリカ潜在力」を活用するという事例として捉えることも出来る。 現在、ザンビアでも伝統的首長の国政での位置づけをめぐる法律改正が検討されている。本報告では、関係省の役人や大学の研究者からインタビューした情報をもとに、その改正が目的とする内容とそれが孕む問題点について少し述べてみたい。 ザンビアの問題に入る前に、このような伝統的権威の問題の背後にある社会的脆弱性について1.で触れておきたい。 得られた知見1. 伝統的権威の権力と社会の脆弱化の関係 そもそも、伝統的権威が持つ権力を再考してみようという私の問題関心はナイジェリア研究に端を発している。 ナイジェリアは間接統治が行われた国として有名で、ザンビアよりも伝統的権威の権力は保持されているといえる。その典型は、植民地政府がその維持に努めた北部のスルタン=エミール体制であると言えよう。独立後、長期にわたり政権を担ってきた軍事政権はほぼ一貫して伝統的権威の政治的権力を削ぐよう努力してきた。しかしその権力は隠然とした力を保持してきたようである。それは民政時代(1979~1984年:シャガリ政権、1999年から現在まで:オバサンジョ、ヤラドゥア、ジョナサン政権)に明らかになった。 いざ選挙となると、政治家達がもっとも頼りに出来る人物は、パトロン=クライアント関係の頂点に位置する伝統的権威であった。これは、選挙民主主義が伝統的権威の権力拡大にチャンスを与えたという皮肉な現実を明らかにしている。現在アフリカ諸国では軍政や一党独裁制が減少し民主化が進んでいる。それ故に尚更、この伝統的権威と国家との関係を再検討する時期にきていると考えはじめたのである。 さらに、この問題に私が関心を持つきっかけとなったのが、ナイジェリア南部の都市アバで活躍したバカッシ・ボーイの研究である(Meagher 2007)。靴製造業者が自分たちの製造と販売を守るため自主的に結成(1998年)した自警団(バカッシ・ボーイと呼ばれる)に関する研究である。この自警団は、結成されるやいなやアバを支配していた暴力団と徹底的に戦い、一躍住民の人気を博した。犯人と思われる人物を街中で射殺したり、賄賂で助命を懇願する犯人を殺害し申し出の賄賂品を焼却するなど、やり方の残酷さにもかかわらずある種の清廉さが評判となり有名になったのであるが、結成後1年足らずの間に政治家に利用され組織は自壊してしまった。この自警団は、この地域に昔から多くみられるカルト集団や秘密結社の流れを汲む組織ではない。商業活動の安全保持を唯一の目的として、きわめて合目的な近代的(武装)組織として結成されたものである。それにも拘わらず、非近代的・非清廉な政治家や彼らを取り巻く伝統的権威たちに容易に取り込まれ、政治化(politicize)してしまったのである。 この2つの事例は、この科研のテーマに即して言えば、政治家や伝統的権威が(隠然たる)潜在力を持っていることを示している。しかもその潜在力は、その発現の方向性次第では、我々がこの科研で追究しているポジティブな潜在力の成果を一気に無化してしまう強さを持っているというも示しているようである。 2. ザンビアにおける地方分権略史 下記の表は、地方分権に関わる政策の中で、幾つかの転換点を画した事項を示したものである。1990年に、四半世紀近く続いた統一民族独立党(UNIP)の一党独裁制度が廃止され、1991年に行われた選挙で複数政党民主主義運動(MMD)が政権の座に就いた。 このMMDが真っ先に行ったのが、地方分権省の廃止であった。これは、長年の一党独裁体制のもとでUNIPの政党組織と一体化されていた末端行政組織を、UNIP党の軛から解き放つためであった。その上でMMDは新しい形の地方分権化を推し進めようとしたが、彼らが政権の座にある内にはそれは完成しなかった。 2011年に愛国党(PF: Patriotic Front)が政権の座に就くと、MMDが推進していた地方分権化政策にかわり、自分たちが選挙マニフェストで掲げていた地方分権政策を推し進めることにした。そのための検討が2012年に始められ、私が現地を訪問した2014年の2月もその検討は継続されていた。様々な抵抗もあるようで、地域分権化の改訂法は3月に出来るとの予定が示されていたが、遅れ気味の様子であった。
3. サタ政権の首長制度改革と地方行政 ここではPFが考えている地方分権、とりわけその中での伝統的首長と地方行政機関との関係に焦点を絞り問題点を幾つか指摘しておきたい。 2011年9月、PFのサタ(Michael Chilufya Sata)が大統領となった。選挙中の公約でPFは、伝統的権威の復権を認めつつMMDとは違う形の地方分権を推進すると言ってきた。そこでPFがまず2011年に行ったことは、首長および伝統省(Ministry of Chiefs and Traditional Affairs)の新設と首長議会の設置であった。2014年の2月の段階でも、地方分権化法案の改定作業の中では、伝統的権威をどのように近代的行政機構の中に正式に組み込むか検討途中であった。 地方分権改正法は未だ決定されていなかったので、ここでは行政官や研究者からのインタビューで得た情報を元に、地方分権と伝統的権威(ここでは主として首長)との関係に関する論点を3点ほど指摘しておきたい。
今後の展開この改正法が実現するにはまだ紆余曲折があるかも知れない。しかしもしこれが制定されれば、これは「アフリカ的民主主義」の1つの試みであると考えることができる。これは、アフリカの潜在力が国家レベルの政治の場でどのように発揮されるのかを見る機会であると思う。 (附記:本報告は科学研究補助金(基盤研究(B))「アフリカ農民の流動性、生業の多様性、および「秩序」に関する研究」(研究代表者:島田周平)での調査結果の一部も利用した。) |