【学会における企画パネル報告】日本アフリカ学会第50回学術大会フォーラム「土地をめぐる紛争と伝統的権威」(東京大学/2013年5月)

(東京大学/2013年5月)

2013年5月25~26日に開催された日本アフリカ学会第50回学術大会において, 4本の研究発表により構成された「土地をめぐる紛争と伝統的権威」と題するフォーラムを組んだ。以下はそのプログラムと要旨である。(佐川徹)
キーワード:土地紛争, 伝統的権威, 慣習法, 近代化, 紛争解決

プログラム

日 時:2013年5月26日11時~12時
場 所:東京大学駒場キャンパス11号館2階1106(D会場)

  • 佐川徹(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)「趣旨説明:土地をめぐる紛争と伝統的権威」
  • 壽賀一仁(一橋大学大学院社会学研究科)「ジンバブウェ土地改革にみる再入植地の形成と伝統的権威―同国中部マシンゴ郡の事例から」
  • 大山修一(京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科)「人びとの怒りによって殺されたチーフの魂が領域をまもる―ザンビアの土地法とベンバ社会の伝統的権威」
  • 目黒紀夫(日本学術振興会/東京大学)「ケニア南部マサイ社会における集団ランチの私的分割の行く末」
  • 川口博子(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)「ウガンダ北部における首長位の「復活」と土地問題」
  • コメンテーター:松田素二(京都大学文学研究科)

要旨

趣旨説明:土地をめぐる紛争と伝統的権威
佐川徹(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

土地豊富社会として特徴づけられてきたアフリカ社会も、人口増加にともない土地稀少社会へと転換しつつあり、土地をめぐる相克が紛争の争点として浮上している。植民地時代から積み重ねられてきた不均等な土地配分は、多くの地域で紛争発生の主要な背景要因となっている。紛争終結後に帰還する避難民にどう土地を割り当てるのかは、紛争後社会が抱える最重要の政治課題である。2000年代に入り国内外資本による大規模な土地取得が進むなかで、多くの地域で住民が故地からの退出を迫られつつある。

本フォーラムでは、この土地をめぐる紛争とその解決に伝統的権威がどのように関わっているのかに焦点を当てる。アフリカ大陸の各地域において、「伝統的」とされる権威の多くは植民地時代に改変ないし創造され、その政治的運用の過程で実体化してきたものである。独立後のアフリカ諸国は伝統的権威の力を抑制することを試みたが、1990年代以降に民主化や地方分権化が進む過程で、伝統的権威は国内では法的正統性を付与され、国際社会からは援助の媒介者として位置づけられることで、重要な政治的アクターとしての地位を獲得した。

伝統的権威はしばしば土地配分の裁量権を手にしており、土地をめぐる争いに深く関与している。関与のあり方は多様であり、地域の事情を熟知し公平な調停者として対立の激化を未然に抑止する存在になることもあれば、縁故主義に依拠した土地配分をおこなうことで一部住民に不満を蓄積させることもある。多くの地域住民の意向を無視して外部資本に土地を譲渡することで、人びとの憎悪の対象となることもある。彼らの決定は、ときに紛争の駆動因として、ときに紛争の抑止弁として機能する。

本フォーラムでは、ザンビア、ジンバブエ、ケニア、ウガンダにおいて、土地をめぐる紛争と伝統的権威の関係を検討することをとおして、土地をめぐる相克がますますつよまることが予測されるアフリカ社会における紛争解決のあり方を議論したい。

ジンバブウェ土地改革にみる再入植地の形成と伝統的権威
―同国中部マシンゴ郡の事例から―
壽賀一仁(一橋大学大学院社会学研究科)

本発表では、ジンバブウェで2000年に始まった急速再入植計画(the Fast Track Land Reform Programme)によって誕生した同国中部マシンゴ郡の再入植地の形成プロセスを明らかにすることを通じて、再入植地の土地利用をめぐる紛争およびその解決と伝統的権威の関わりについて考察することを目的とする。

ジンバブウェにおける伝統的権威は、19世紀末にイギリス南アフリカ会社によって制圧され、植民地期には1930年の土地指定法(Land Appointment Act)によって居住条件が悪い国土の20%(後に40%)の土地に多数の黒人が追いやられた原住民保留地(後に部族信託地)においてのみ、かつ植民地政府の監督を条件に土地配分の権限が与えられていた。

1980年の独立後、ジンバブウェ政府は村開発委員会(VIDCO)等の地方行政組織を設置し、それらを与党ジンバブウェ・アフリカ民族同盟・愛国戦線(ZANU-PF)の影響下に置いて中央集権体制を作ることで伝統的権威の力を抑制してきた。また、植民地期に作られた人種間の不均等な土地配分は十分是正されず、再配分で生まれた再入植地(国土の8%)に伝統的権威の権限は認められなかったため、この面でもその力は抑制された。しかし1990年代後半に民主化運動が高まると、政府・ZANU-PFは1998年、共同体地区の土地問題や軽犯罪に関する管轄権を明記した伝統的指導者法(Traditional Leaders Act)を制定して伝統的権威に法的正統性を付与し、自らの支持基盤として連携強化に取り組み始めた。

こうした矢先の2000年2月、白人所有地の強制収用権限を含む憲法改正案が国民投票で否決されたことを契機に大規模商業農場の占拠が全国で始まり、それに背中を押される形でジンバブウェ政府が実施した急速再入植計画はのべ1,100万haを収用し、うち900万haを17万世帯に配分した。植民地期から積み重ねられてきたジンバブウェの根深い紛争要因はこうして大きく解消されたが、土地再配分の過程において伝統的権威が大きな役割を果たしたのは一部の事例に限られ、むしろ人々の入植後の土地利用をめぐる紛争とその解決に伝統的権威の関わりが重要であることがうかがえる。

事例となるジンバブウェ中部マシンゴ郡の再入植地では、国民投票直後に始まった農場占拠に時を追う毎に参加者が増え、それに急速再入植計画による入植者が加わったが、その出身地域は周囲数十km圏内に広く散らばっており、それぞれの属する伝統的権威が同地に対する権利を直接主張することはなかった。しかし、同地の南西100km地点で国際資源会社リオティントが開発したダイヤモンド鉱山からの住民移転計画が同時期に持ち上がり、対象住民が属する伝統的権威が植民地化以前に周辺地域を領域としていたことから権利を強く主張するに至り、同地をめぐる紛争は難しいものとなった。

この調停は困難を極めたが、退役兵士を中心とした農場占拠者、急速再入植計画による入植者、鉱山からの移転住民の三者による粘り強い話し合いと州政府の仲介により、移転住民の伝統的権威を非公式ながら同地で認知することで三者の共存が成立し、土地配分については解決をみた。しかし、不本意な移転に加えて共存に伴う所有面積の削減を余儀なくされた人々の不満は根強く、放牧地をめぐる紛争がしばしば発生した。これに対して移転住民の伝統的権威は有効な解決策を講じ得なかったが、住民たちは井戸や製粉機の共同利用等から築いてきた社会関係を通じて紛争の激化を防ぐ一方、隣接地域の伝統的権威を巻き込むことによってフォーマルな対話の窓口を開き、紛争を沈静化させることに成功している。

人びとの怒りによって殺されたチーフの魂が領域をまもる
―ザンビアの土地法とベンバ社会の伝統的権威―
大山修一(京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科)

アフリカの土地問題を議論するときには、土地の私有と慣習地における共同保有という植民地政策以降の法律の二重性が大きな課題となっている。ザンビアでは、1995年に新しい土地法が制定され、共同保有を基本とする慣習地において土地の所有権を認めた。土地の所有権に関する許認可については、各民族の伝統的支配者層に大きな裁量が与えられている。ザンビア北部のベンバの領域では、土地は共同保有であり、住民どうしがお互いに気遣いや配慮をしながら、チテメネと呼ばれる焼畑を開墾してきたが、チーフLの領域では、2003年以降、土地所有権を取得しようとする希望者がチーフと面会し、その承諾を得て、ザンビア政府の発行する土地保有証明書、あるいはチーフの発行する土地割当書を取得している。土地の取得を希望する申請者は、チーフの同意を得ることが不可欠であり、両者のあいだでは手続きに必要な経費の支払いだけではなく、必ずといってよいほど、物品や金銭の授受がおこなわれる。ザンビア社会では、特権をもつ人間との民族や縁故を通じた人間のつながりによって汚職が横行する素地がある。土地保有証明書や土地割当書の取得に関する許認可には、申請者はチーフや村長、関係機関の役人の許認可を得る必要があり、申請者とチーフ、村長などの伝統権威とのあいだには便宜供与を目的とした賄賂の授受がおこなわれている。衆目につかない土地保有の許認可に関する黒い噂は、ベンバの村落社会でひろく流布されている。チーフLの領域においては、多くの人びとが内情を知っている訳ではないが、CP氏とKL氏の2人のチーフが外部者に土地を譲渡し、私服を肥やしていたとされている。

慣習地における土地の譲渡および村びとからの土地の収奪によって、利用できる土地が制限され、村びとの生活は確実に変化し、生活の質が劣化している。人びとは土地の譲渡に対して怒りを覚え、生活の劣化に不満をもっているにもかかわらず、耐えているのが現状である。そのようななか、ふたりのチーフ(CP氏とKL氏)が2007年と2009年に相次いで、不自然な死に方をする。この不自然な死について、領域に住む人びとは明言を避けるものの、われわれ臣民の怒りと不満がチーフに死をもたらしたのだと考える人もいる。領域の臣民が安穏と過ごすことができるように生活を庇護すべきチーフが、みずからの権力を乱用し、村びとが放し飼いにしている家畜を勝手に捕まえ、売却したり、あるいは領域の土地を外部の個人や企業に売り渡すという私服を肥やす行為は、ベンバの人びとの良識(umutembo)に反する行為であり、2人のチーフの不自然な死は臣民の生活を犠牲にし、私服を肥やす強欲さに由来するものだと考えられている。

チーフは領域の土地と人びとに対して絶大な権力をもつが、チーフの施策によって人びとの生活が劣化するとき、人びとの怒りはチーフの地位をも揺るがすことがある。しかし、人びとの怒りが永遠につづく訳ではない。チーフの死を通じて、人びとは次第に怒りをしずめ、チーフを許すのである。人びとは怒り(kufolwa)を持ち続けることなく、許し(uluse)の重要性を強調する。そして、チーフの魂(imipashi)はその領域を守り、領域の土地と臣民の生活を守るのだと信じられている。チーフの死後、新しいチーフが就任したとき、臣民たちは新しいチーフの施策が状況を改善してくれることを期待し、新しいチーフも領域の歴史と現状を理解し、それまでのチーフの生き方、ベンバの良識にもとづいて状況を判断し、問題を取り除き、新しい行政(kuteka)をはじめるのである。地方行政はチーフの資質によって大きく変化し、土地紛争や人びとの生活の劣化を引き起こすこともあれば、新しいチーフが就任し、状況を改善することもあり得るのである。

土地をめぐる紛争と伝統的権威
―ケニア南部マサイ社会における集団ランチの私的分割の行く末―
目黒紀夫(日本学術振興会/東京大学)

18世紀に現在のケニア南部からタンザニア北部に跨る範囲をテリトリーとしたマサイの社会には全体を統べる集権的な政治機構は存在しなかった。およそ14~15年ごとに結成される年齢組内から選出される代弁者(il-aiguenak)には大きな権威が認められてきたが、20前後の地域集団(il-oshon)のテリトリー内の資源利用の管理/監督は各地域の長老集団によってなされてきた。ケニアは1895年にイギリスの保護領となり、間接統治の体制が構築されていった。植民地政府は1904年と1911年にマサイの「最高首長」と条約を締結し、白人入植・農耕に適した土地を奪い上げたが、そこでマサイの代表とされた「最高首長」は植民地政府によって作り出された権威に過ぎなかった。独立後、1960年代にランチング制度が導入され、従来の地域集団のテリトリーを細分化する形で集団ランチが各地に創設された。それと並行して個人ランチが設定され一部のマサイが私有地を獲得したが、1980年代には集団ランチの私的分割が政策的に推進され共有地の多くは私有地へと再編されていった。各集団ランチに設置された管理委員会は開発政策・援助の窓口として一定の権益を握るようになったが、多くの地域では伝統的な権威を超える存在とはならなかった。

近年では、土地の私的所有の拡大や他民族の移流も含めた人口増加、各種の近代化政策の影響で牧畜以外の生計活動が増大・多様化しており、農耕に加えて観光・野生動物保全といった土地利用が紛争の原因となっている。本発表ではケニア南部アンボセリ生態系(ロイトキトク・コンスティテューエンシー、6356.3km2)に暮らすロイトキトク・サブ地域集団を事例として、現在のマサイ社会における土地をめぐる紛争とそこに確認できる権威について複数の事例を基に検討する。アンボセリ生態系はケニアを代表する野生動物観光の地であり、アンボセリ国立公園を中心に7つの集団ランチと個人ランチ(私有地)の区域から成る。共有地の私的分割に最初に取り組んだキマナ集団ランチでは、他民族による土地の購入が問題視されており国会議員が土地転売の禁止を検討したりもしている。ただし、集団ランチの委員が土地の販売や賃貸から巨額の利益を得ている中では、具体的な規制はかけられていない。また、共有地上に設立された野生動物サンクチュアリを管理・経営する観光会社をめぐって対立が生じた時には、リーダーを中心にクランに基づく政治的動員が試みられもした。だが、無条件に自らが属するクランの人間を支持する住民ばかりではなく、リーダー間でもつれた問題は最終的に集団ランチのメンバーではない国会議員の介入で決着が図られた。一方、国際保全NGOの主導下、分割された私有地を小規模な範囲で組織化して設立されたコンサーバンシーをめぐっては、観光開発や資源開発を意図してメンバーに接触を図る外部者の登場とともに土地所有権と契約をめぐる意識のズレから軋轢が生じた。そこではNGOが説明する個人主義的な自己責任の原理がメンバーに受けられる形で事態は収束した。これらの事例では、いわゆる伝統的権威が強い力を発揮したとは言い難いが、そうした事態の一方で、野生動物による死亡事故を契機として国立公園の存在が議論された最近の事例に顕著に見られるように、政治的な動機からマサイとしての「われわれ」の一体性が強調され、少なからぬ住民に受け入れられてもいる。土地の私有化が進行するマサイ社会の場合は、政治的リーダーと外部の援助団体との間で、私的土地所有者となった各世帯/個人がどの程度に自律的な意思決定を行えているのかについて検討することが必要と考えられる。

ウガンダ北部における首長位の「復活」と土地問題
川口博子(京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科)

本発表の目的は、ウガンダ北部のアチョリ社会において「復活」した伝統的首長と近隣住民のあいだで起こった土地問題を事例に伝統的首長と一般の人びととの土地を介した関係、および国家が進めている土地登記と慣習的土地制度の関係を明らかにすることである。また、以上2つの問題を明らかにしていくなかで、伝統的な土地問題の処理方法と国家法を人びとがいかに認識し、運用しているかを展望する。

2012年8月、北部ウガンダの中心都市から北に20㎞ほどの村で、事業家でもある同地域の有力な一族と伝統的首長のあいだで土地問題が発生し、地域住民も参加して会議が開かれた。伝統的首長は歴史や首長の権威を根拠に、そして有力な一族は土地登記を根拠に土地に対する権利を主張し合った。地域住民の多くは伝統的首長を擁護する発言をしたが、それは必ずしも首長に同意しているわけではなく、この一族がほかの隣人ともすでに激しい土地紛争を起こしていたからである。一方、伝統的首長も国家による土地法の強制力を十分に理解しており、その手にはウガンダ憲法が握りしめられていた。地域社会では紛争の調停者である伝統的首長が、土地問題においては、紛争の真っただ中に立たされているのである。

アチョリの伝統的首長は特定の家系で世襲され、ひとりの首長のもとに複数の父系親族集団が帰属している。人びとは、土地を親族集団単位で所有していたため個人的な所有権は存在しなかった。首長は有力な親族集団のなかで世襲されたため、植民地期の文献には、首長が土地の所有者であるという記述も残されている。植民地期になって、伝統的首長は行政首長に置き換えられたが、土地所有に関して大きな変化が起こったという記録は残っておらず、土地は親族集団に帰属するものとしてあつかわれてきた。

ウガンダ北部では、1986年から20年以上にわたって現政権と反政府勢力による武力紛争がつづき、アチョリランドの住民の約90%が10年以上のあいだ、国内避難民として土地を離れることになった。この紛争は、人びとの生活の荒廃をもたらし、村への帰還後にはアチョリランドの四方八方で隣人間、親族集団間、民族間の土地問題を引き起こしたのだが、それと同時に衰退した伝統的首長の「復活」にも一役買うことになった。ウガンダ政府は、反政府勢力との仲介役として伝統的首長を登用し、国内避難民に対して人道的支援をおこなってきた国際NGOなどは、地域社会の再構築のためにアチョリの「伝統」を重視して、伝統的首長たちに対して積極的に経済的な援助をおこなってきた。こうした背景によって、2000年代になるとアチョリの伝統的首長は「復活」し、権威を強めた。

こうした状況下で、上に述べた土地問題が発生したのである。近年、伝統的権威者は国家やNGOなどの外部アクターと地域社会をつなぐ役割を果たすことや、伝統の守護者となることが注目されてきたが、本事例では、伝統的首長の権威の正統性が問われており、地域社会の人びととの関係性の危うさが見てとれる。また、慣習的土地所有と国家法による土地登記の関係においては、伝統的首長は国家法の規定を公式に越えることはできない。最後に、人びとがいかに伝統的首長と関わり、いかにして慣習的土地制度と土地登記制度を利用しているのかをみることで、今後にますます増加すると考えられる土地問題に対する、伝統的な処理方法と国家法との関係を展望することができるだろう。

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