【2012年度派遣報告】島田周平「地域紛争の調停に乗り出した同鄕集団:エビラ社会の場合」

(派遣先国:ナイジェリア/派遣期間:2013年1月~2月)
「地域紛争の調停に乗り出した同鄕集団:エビラ社会の場合」
島田周平(東京外国語大学)
キーワード:同郷集団, 紛争処理, 伝統的権威

研究目的

ナイジェリアでは2000年代に入り南部と北部で激しい地域紛争が起きた。南部のニジェール・デルタ地域の紛争と、北部の各地で起きたボコハラム関係の紛争である。ナイジェリアの地域紛争ではこの2つの地域紛争に世界の耳目が集まっているが、この他にもたくさんの地域紛争が起きてきた。私が1970年代から調査しているエビラ社会(中部ナイジェリアのコギ州が故郷)でも2000年代に入り大きな紛争、いわゆるエビラ暴動が起きた。

今回私は、このエビラ暴動の沈静化と事態収拾に一定の役割を果たしたといわれている同鄕集団の働きに関して聴き取り調査を実施した。具体的には首都アブジャで結成されている同鄕集団の関係者に会い、それらの集団がこの暴動時(2006年が最悪で、2005年から2010年まで断続的に続いた)にどのような役割を果たしたのか聴き取りを行った。

調査から得られた知見

1. なぜ同鄕集団に注目するのか

暴動を収拾するためにはその原因を理解することが重要である。しかしこの暴動については今も有力な原因説が提示されていない。各地で起きた暴動は個々別々な理由で説明されているが、それらを総合的に理解する道筋はたっていないのである。この様な特色を持つ暴動であったからこそ、故郷を離れた同鄕集団の出番があったといえるかもしれない。

宗教的指導者や伝統的支配者が何度か事態の収拾に乗り出したが成功はしなかった。それどころか彼等が前面に出ることは対立軸を増やすだけで、暴動に火を注ぐ危険性すらあった。この錯綜した状況に直面して、故郷を離れたエビラ同鄕集団の人々の間で危機感が共有され自分たちが果たす役割があるのではないかと考え始めたのがそもそもの始まりのようである。

当然のことながら今回の予備的調査では暴動の背景について詳しく知ることはできなかった。しかしこの暴動を生んだエビラ社会の錯綜した背景について少しは理解を深めることができた気がする。それについては今後の現地調査でさらに明らかにしていきたい。

2. 暴動の調停に動いた同鄕集団

今回聴き取りできた集団は10団体であった(1)。一番多かったのは互助講であり、その他は相互扶助や情報交換を主たる目的とするクラブであった。聴き取り調査の中で、これらの集団が組織としては相互に連携するところがなく、メンバーの安定性が低い傾向にある印象を受けた。しかし個人の立場からみると、幾つもの組織を渡り歩く人もいて、組織相互間の人的繋がりは多い。エビラ社会の同鄕集団の「未統合化」は1つの特徴をなしているといえるかもしれない。聴き取り調査の中で何人もが、組織の統合や連携の弱さを指摘する時に、「我々エビラ人は元来リパブリカン(Republican)(2)だから」と言っていたのが印象的であった。

そんな中で、故郷を出たエビラ人の一番大きな受け皿として結成されていたのが全国各地にあるエビラ人協会(EPA: Ebira People’s Association)である。各地のEPAは、オケネにいるエビラ社会の最高の伝統的権威者であるオヒノイ(Ohinoyi of Ebiraland:王または最高首長と呼ばれる)に承認された地区長オノバ(Onoba)を中心として結成されていることが多い。エビラ人は誰でも(たとえ出稼ぎ先で生まれた「二世」であっても)入会することができ、宗教的な差別はないことになっている(3)。毎年一回、各地のEPA組織が集まり全国大会を開催することになっており、昨年は12月29日にアブジャで大会を開いたという。

ところで、2000年代の暴動の沈静化に一定の役割を果たしたと自負するエビラ平和計画(EPP:Ebiya Peace Project)は、このEPAのメンバーを中心に結成されている。エビヤ地域における秩序の崩壊を憂え、平和の復活を願う人々によって2005年の中頃に結成された。多くの有力者や経済人、さらにはコギ州の開発に携わる役人たちが会員として参加し、11月にはエビラ社会の最高の伝統的権威者であるオヒノイを代表顧問に戴いた。このあと有力者も何人か顧問に任命された。

メディアを積極的に使い国内外の同鄕人に訴え世界のNGOからの支援も得るEPPの活動は、EPAの伝統的なやり方とは大いに異なる。しかしながら、オヒノイを頂点とする伝統的権威システムに寄り添っている点で、紛争処理を目的としたEPAの別働隊のような役割を担ったといえるのではなかろうか。

このプロジェクトは、会則ではっきりと危機回避のために積極的に働きかけを行い対立の芽を摘み取ることを狙っていると謳っている。メンバーは口をそろえて、残虐な暴動の報道によって、エビラ人の残忍さやエビラ社会の無秩序さが全国に喧伝されることに危機感を感じたといっている。そして、オヒノイとエミール(オケネのイスラーム教の最高指導者)の調停が難航する中、彼等の要請を受けて外から仲裁に乗り出したというわけである。暴動が最も過激化していた2006年には、EPP代表者たちの説得もまったく効果がなかった。しかし2010年頃になって人々の間に厭戦気分が広がると彼らの調停も功を奏するようになり、最終的にはオヒノイが出てきて収拾が実現したのだという。

3. 複雑な紛争原因

EPP活動の効果の程を知るにはさらに詳細な調査が必要である。しかし今回の調査の中で明らかになってきたことはエビラ社会の斜交葉理のように積もり重なっている人々の関係性である。エビラは仮面祭で有名であるが、その祭りの場がクランや地域間の争いの爆発の場となる。エミールとオヒノイ、キリスト教徒とオヒノイの関係は時に友好的であるが地方政府も巻き込んで深刻な対立を引き起こす。そしてイスラーム教と伝統的宗教との対立もある。イスラーム教徒は一般的に仮面祭に否定的である。とりわけ急進派の若者たちはその固陋さを痛烈に批判する。これらの対立に加えて、民主化以降政治家の対立も激しくなってきた。エビラ社会における政治的対立とは政党間の対立ではなく政治家間の対立である。政治家は、政党内のポストをめぐって争い、それに破れれば別の政党に移る。彼等の中には若者に武器を与え私兵のように使っている者もいる。

こうした故郷における重層的な関係は出稼ぎ先でも引き継がれ、オヒノイの指示に従う地方の首長オノバ(Onoba)とイスラームの指導者であるエミールに従うワジール(Wazir)とが並存している。一人の人物が両職を兼ねている場合もあるが、両者が鋭く対立している場合もある。EPPが調停に際し最終的にはオヒノイとエミールの双方に働きかけを行い、両者から協力を得ることで暴動が鎮静化したとするEPPのメンバーの説明はある意味正しい。しかしそれはあまりに模式的な説明であり、真相を探るにはもっと掘り下げて調べる必要がある。

今回の調査は、エビラ社会の多数派であるイスラーム教徒中心の集団の聴き取りが中心であった。この結果に、マイノリティであるキリスト教徒側の情報を加えることで、複雑な暴動の背景をより正確に読み解くことができるのではないかと考える。次回は、南部ナイジェリアに多くあるキリスト教徒中心の同鄕集団のメンバーを対象に、彼等が暴動時にどのような活動を行って来たのか聴き取りしてみたい。

4. 故郷オケネを訪ねて

写真①

今回の調査は、アルジェリアで日本人10人を含む39人が殺害されるという人質事件(2013年1月16日)の直後の1月28日から2月17日にかけて行った。現地に滞在中の2月9日には、北部ヨベ州で北朝鮮の医療関係者3人が殺害されるという事件も発生し、調査行動は予定したようにはいかなかった。首都アブジャでの同鄕団関係者へのインタビューは実現したのであるが、故郷オケネでの調査は断念せざるを得なかった。

しかし2月9日に挙行された伝統的支配者シロマ(Ciroma:オヒノイに次ぐ高位にある地位とされる) の就任式に参加するため1泊2日の行程でオケネを訪ねることができた。写真①は、就任式のためにエミールパレス正門前に駆けつけた人々の写真であり、写真②は、パレスの中で談笑する全国各地から駆けつけたエミールやワジール、そして各種の有力者達である。かつてはこの種の就任式には誰でもパレスの中には入いることができたというが、今回はセキュリティが厳重で一般の人達はパレスの中に入ることができなかった。この時、一部の新聞はイスラーム過激派のアンサルのメンバーがエビラ地域で活動していると報道していた。

写真②

(1)今回聴き取りしたのはアブジャにあるエビヤ同鄕集団の関係者、しかもイスラーム教徒が中心の集団であった。エビラ社会は、イスラーム教徒が多数を占めるがキリスト教徒が2,3割、どちらも信じていない人が1割以上はいるという社会であるので、今回の聴き取りはいささかイスラーム教徒よりの視点に偏っていることに留意が必要である。次回は南部都市におけるキリスト教徒中心の同鄕集団での調査を予定している。

(2)その意味するところは人によって違うのであるが、「集団を創るがまとまりにくい」という意味を込めて自戒的にいう場合が多い。

(3)したがって宗教的にはイスラーム教徒もキリスト教徒も区別なく認めるエビラ人同鄕集団であるといえる。しかしかつて、北部の大都市カノで、多数を占めるイスラーム教徒がキリスト教徒のOnobaと厳しく対立し暴動に発展した事がある。

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