「スワヒリ文学の受容の場を探る:タンザニアにおける読書環境と読者に関する調査」
小野田 風子
(派遣先国:タンザニア/海外出張期間:2016年9月11日~9月28日、2017年2月24日~3月4日)
私はタンザニア人のスワヒリ語作家の研究を専門に行っており、普段の研究は文献研究が中心になります。しかし文献研究だけでは、どのような人がこの作品を読んでいるのか、作者はどのような人々を読者として想定しているのか、また作品を読んだり議論したりする場はどのようであるのか、ということはわかりません。そこで今回、スワヒリ文学が生み出され、読まれ、議論される場、すなわちスワヒリ文学の受容の場を探るため、タンザニアに赴きました。
調査について述べる前に、タンザニアの文学をめぐる状況を確認しておきます。タンザニアは「スワヒリ語の小説、詩、戯曲の主要な産出国」(Mazrui 2007: 43)と言われています。またスワヒリ語がほぼ100%の人に通じ、識字率は約75%とされています。よって、多数の作家を輩出し、「読める層」も多い国であることがわかります。
一方で、本は高価で、学業修了後は文学作品を手にとって読む機会はほとんどなくなってしまう(竹村 2014)とか、出版社の経済規模も小さく脆弱であるため、作家では生計を立てられない(竹村 1996)といった報告もあり、受容の場としての実態がいまひとつ見えてきませんでした。
今回私が赴いたのは、タンザニアの大都市ダルエスサラームと、その近海に浮かぶ島ザンジバルです。現地では主に三つの内容の調査を行いました。一般人や作家、編集者へのインタビュー、文学学会への参加、そして書店めぐりです。
一般の人々に対するインタビューでは、どれくらい本を買うか・読むか、詩と小説ではどちらがより身近か、など、スワヒリ文学との距離を尋ねるようにしました。その結果、大学生や大卒の人々は研究や教育のための本の他に、小説や自己啓発系の本など幅広い種類の本に触れていましたが、それ以外の人々が買ったり読んだりする本は、子どものための教科書や宗教関係の本、仕事の技術を学ぶための本にとどまり、著名な小説家の名前も知らないようでした。またいずれの人々も読書は現実世界に役に立つ何らかの教えを得るためにすると考えており、純粋に楽しみのために読書をするという習慣はあまり見られないことがわかりました。
一方、スワヒリ詩については異なる結果が得られました。学歴に関係なく、多くの人がスワヒリ語の定型詩を好み、詩の規則について知っていて、詩作や詩の朗唱ができるという人も半数いました。この背景には、テレビやラジオでの詩の番組、大衆歌謡ターラブの歌詞、宗教的な集会での詩の朗唱など、スワヒリ定型詩に触れる機会が多いことが挙げられると思います。同じスワヒリ詩でも、一定の節で歌うことができない自由詩の知名度は低く、口承文芸として受容し得るからこそ、定型詩は大衆性を獲得し得たと言えるでしょう。
詩の大衆性と比べてスワヒリ小説はあまり親しまれていない印象です。そんな中で、複数の大学生が好きな作家として挙げたエリック・シゴンゴ(Eric Shigongo)という小説家については、学歴に関係なく多くの人がその名前を知っていました。彼は小説家かつ自己啓発系の本の著者で、みずから出版社を立ち上げ、自分の作品以外に新聞の発行も手掛けています。さらに講演活動などでテレビにも頻出し、最近は映画の製作にも乗り出したそうです(Reuster-Jahn 2008)。またSNSを駆使したマーケティングを行っており、彼のFacebookページは作品の紹介や講演会の案内などで充実しています。
ページ上には、彼の作品が手に入る書店の名前も挙がっているのですが、今回私はダルエスサラーム市内のそれらの書店を実際にめぐってみました。その結果、11軒の書店の内、彼の作品を確認できたのは7軒、売り切れたと言われたのが1軒でした。これは目当ての本を手に入れることさえ難しいタンザニアにおいては稀有な状態です。シゴンゴの作品は、学校の教材以外の本の中では最も手に入りやすいと言えるでしょう。
シゴンゴの小説の多くは娯楽的な要素の強いサスペンスで、話の展開が早く、ショッキングな内容(性的・暴力的シーン)の連続で、読者を飽きさせない工夫がなされています。実際の売上や、読者層についてはさらなる研究が必要です。しかし彼のようなビジネスマンがスワヒリ語で書いているという事実は、工夫の仕方次第でスワヒリ語の書き物がビジネスとして成り立つことを証明しているようで、スワヒリ文学のさらなる拡大の可能性を感じました。
スワヒリ文学の中には、シゴンゴとは異なり、難解な表現や文学技法を用いた「エリート文学」ともいうべき作品も多く存在します。このような大衆性の低い作品の受容の場はいったいどこにあるのでしょうか。今回の調査で、その答えを垣間見たように思います。それは学会という場です。2016年9月、私はダルエスサラームとザンジバルにおいて、二つのスワヒリ語学会に参加することができました。より大規模であったダルエスサラームの学会では、著名な作家、詩人、政治家などそうそうたる面々が一堂に会し、スワヒリ文学や言語学の成果が情熱的に確認されていました。また新しく出版された小説や詩集の紹介や販売も行われ、多くの人が買い求めていました。二日間の学会で約100人が発表し、その内容はエリート文学からスワヒリ・ポップスの歌詞まで多岐に渡っていました。
学会への参加という経験から、「エリート文学」の受容の場について漠然と気づいたことがあります。それはおそらく大学の文学部を中心とした学生、教員、研究者、卒業生のコミュニティであり、それこそが次世代の作家、詩人、読者、研究者を生み出し続けているということです。エリート文学は、世間一般からは遊離した限定的な知識人のコミュニティの中だけで受容され、規模と質を維持してきたようです。よって消費者数という意味では非常にマイナーではありますが、文学を育んでいこうという熱意は学会などで共有され、再生産されているということが推測できます。
同じことが、作家へのインタビューでも感じられました。今回私は現代スワヒリ文学の重要な作家の一人であるサイド・アフメド・モハメド(Said Ahmed Mohamed)氏にインタビューする機会を得ました。彼の作品の格調高い表現や実験的な構造は、かなり読者を選ぶと思われます。そこで彼に、どのような人を自分の作品の読者として想定しているかと尋ねてみました。すると彼は、隣国のケニアで彼の作品の理解者が一定数いると話し、たとえ自分の作品が難しくて理解できないと批判されても、気にせず書き続けると述べました。この発言からも、特に彼のような難解な作品の受容の場は非常に狭い一方で、その価値を理解し、芸術的質を保とうと努力している層が確実に存在しているということがわかります。ある文化の価値は、その文化の遍在性だけで測れるものではありません。たとえ受容の場は小さくとも、作家の芸術への衝動は普遍的なものであり、彼らの創作活動をこれからも追っていきたいと思っています。
今回の調査は短期間で小規模なものでしたが、スワヒリ文学の多層性をうかがい知ることができました。今後も文献研究とともに現地調査を続け、その受容の場の輪郭をより明確にする必要があります。
参考文献
竹村景子(1996)「民族語文学と出版事情:ケニア、タンザニアの現状を考察する」『アフリカレポート』第23号, アジア経済研究所, 22-25.
竹村景子(2014)「タンザニア:二つの言語の狭間で」『カスチョール』第32号, カスチョールの会, 29-32.
Mazrui, Alamin(2007)Swahili beyond the Boundaries: Literature, Language, and Identity. Ohio University Press.
Reuster-Jahn, Uta(2008)Newspaper Serials in Tanzania: The Case of Eric Shigongo (with an Interview). Swahili Forum 15. pp. 25-50.