[海外出張報告] 一條博亮(対立・共生班)ギニア 海外出張期間:2017年9月9日〜23日

「ギニアの政治犯収容所:過去の清算への努力と課題」
一條博亮

(派遣先国:ギニア/海外出張期間:2017年9月9日~23日)

西アフリカの仏領ギニアは1958年9月28日に行われた国民投票により、フランスからの即時完全独立の道を選ぶ。それを主導したのが後にギニア共和国初代大統領となるセク・トゥーレ(Ahmed Sékou Touré)で、彼が仏首相ド・ゴール(Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle)に対して述べた「隷属の下での豊かさより、貧困の下での自由を選ぶ(Nous préférons la liberté dans la pauvreté à la richesse dans l’esclavage.)」という言葉は有名である。

国立博物館敷地内のセク・トゥーレ像(コナクリ)

社会主義国家の設立を目指したセク・トゥーレだったが、その急進的な政策により経済は低迷し、政府内からも批判の声が聞こえるようになった。そんな彼が政権維持のために頼ったのが親族・縁者で、彼らを政権内に入れて多数派を構成することで批判の声を封じた。そしてもう一つ彼が政権維持のために利用したのがカン・ボワロ(Camp Boiro)をはじめとした政治犯収容所である。カン・ボワロは首都コナクリ(Conakry)のカマイエンヌ(Camayenne)地区に存在するセク・トゥーレへの忠誠を誓う共和国防衛隊の兵舎であったが、その一角に政治犯収容所が併設された。そこには敵への内通や反乱を疑われた人々が収容され、拷問により自白が強要された。そして裁判にかけられることなくある人は死刑に、またある人は長期の拘束を余儀なくされたのである。政治犯収容所はセク・トゥーレが亡くなる1984年3月26日まで存続し、約25年間の治世の間にここで処刑された人の数は5,000人とも50,000人ともいわれている。

今回の調査ではカン・ボワロの訪問と、関係者・研究者への聞き取りを行った。

カン・ボワロ外観

カン・ボワロは現在ギニア国軍の兵舎として利用されている。そのため内部に入ることはできず、またかつてあった収容所も第二代大統領ランサナ・コンテ(Lansana Conté)によってすでに取り壊されている。私は2010年と13年にもここを訪れたが、その時と比べて明らかに雰囲気が変化していた。当時のカン・ボワロは正門が固く閉じられ、その両脇には銃を持った門番と大砲が目を光らせていた。またカン・ボワロの周りを囲む壁のあちこちに見張り台があり、そのほとんどに銃を持った見張り兵の姿があった。しかし今回訪れてみると正門は常時開けられたままで、その両脇の門番と大砲は変わらないものの、門番や出入りする人々の表情はとても穏やかであった。またどの見張り台にも見張り兵の姿はなく、壁を越えて出てきた若者に出くわすという場面もあった。正門から内部を見る限り新しい建物があるなど整備されており、収容所だけでなく兵舎に関してもセク・トゥーレ時代の建物は消え去ったようである。研究者の話によるとこれらカン・ボワロの整備は第三代大統領ダディ・カマラ(Moussa Dadis Camara)の頃より始まり、現場の保存を求める遺族会などが反対したにもかかわらず行われたという。

 

聞き取りに関しては、遺族会と研究者それぞれに対して行った。なお今回の調査では過去について質問するのではなく、解決に向けて現在どのような努力が払われており、どのような問題があるのかに絞った。

遺族会は政府に対して真相の解明を求めており、具体的には①行方不明者の捜索、②埋葬場所の発掘、③責任の所在の追求の3点をあげている。そして1971年に大量の処刑が行われた1月25日を記念日として毎年集会を開き、政府への訴えを続けているとのことであった。そこでかつてセク・トゥーレ時代に自身も欠席裁判で死刑判決を受けたことがある現大統領アルファ・コンデ(Alpha Condé)が就任してから進展があったかどうか質問してみたが、彼も何もしてくれないという答えであった。

これについて研究者に質問すると、アルファ・コンデはわざと何もしていないという答えが返ってきた。ギニアでは初代大統領のセク・トゥーレだけではなく、第二代ランサナ・コンテや第三代ダディ・カマラの時代にも迫害や虐殺があり、それらも未だに真相が解明されていない。そのためアルファ・コンデ自身がかかわったからと言ってセク・トゥーレ時代だけを対象とすることはできず、もし行うのであればすべての政権が対象となる。しかし彼は経済や国家の立て直しといった現在の問題に忙しく、過去の問題に手を回す余裕がない。そのため彼が政権に就いている間は現在の問題に専念し、過去の問題は次の政権に任せるのではないか。また彼がかかわらない方が公正な調査ができるのではないか、とのことであった。

またカン・ボワロについては民族による見解の相違もみられた。カン・ボワロでの被害者はギニアの最大民族(国民の約40%)であるプール系が多く、当然遺族会のメンバーもプール系が多い。そして彼らが様々な手段や機会を通して宣伝したこともあり、セク・トゥーレに対する現在の世界的な評価は悪政一色といえる。しかし彼と同じソニンケ人(マンデ系)の研究者はプール系の人々はカン・ボワロのことを宣伝し過ぎであり、セク・トゥーレは確かに悪政も多かったが善政も行っており、現在の評価は偏っているという。またランサナ・コンテ時代に迫害された人々はマンデ系が多かったが、彼らはそれほど声を上げなかったため、現在それについてはほとんど知られていないという不公平感を語ってくれた。

 

今回の調査では自分の語学の問題と時間的な制約もあり、必ずしも十分な調査ができたわけではない。今後は文献研究をしながら語学を磨き、再度現地での聞き取り調査を行いたいと思う。

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