「タンザニアにおける小規模の汚職をめぐる認識のあり方:論と実生活との狭間で」
味志 優
(派遣先国:タンザニア/海外出張期間:2017年2月27日~3月17日)
今回、私はタンザニアのダルエスサラームと北西部のバリアディという地で、汚職や国家の法に対する人々の認識のあり方に関して予備調査を行いました。
周知の通り、特に植民地支配からの独立以来、汚職はアフリカ諸国にとって大変関わりの深いテーマであり続けてきました。近年「グッド・ガバナンス」が広く推進されていることからも分かるように、とりわけ経済開発との関わりにおいて、依然として汚職は非常に問題視されています。
この汚職というテーマに対して、私は調査地の人々の認識のあり方という側面からアプローチすることを試みています。つまり、汚職または法を犯すという行為に対して、我々ないし先進国の人々は悪いイメージ、あるいは日常生活から離れたイメージを瞬間的に抱きますが、調査地の人々はそれとは異なる形で汚職を認識しているのではないか、という問いを探求しています。仮にこうした異なる形で汚職が認識されているならば、開発の議論において「汚職の状況の改善」をただただ要求し、あるいはそのための制度を構築したとしても、人々の実践においては本来の意図通りに結果が生じない可能性があります。また、異なる形で汚職が認識される可能性があるにもかかわらず、特定の認識のあり方を前提にしてアフリカを「腐敗した」国家として断罪することの危うさも提起されます。こうした意味でも、汚職というテーマを認識のあり方という面から考察することは重要であると考えています。
このような背景を踏まえて、今回の予備調査では、ダルエスサラームおよびバリアディにおいて簡単な聞き取り調査を行いました。ただし、汚職といってもその種類は多岐にわたります。最も大きく分類すれば、主に大物の政治家が関与するような、多額の資金が関わる大規模な汚職(“grand corruption” としばしば呼ばれます)と、より下位の行政官や警察官が関わるような小規模な汚職(“petty corruption”)があります。今回は、特に人々の日常生活において身近な、後者の小規模な汚職に関する人々の認識のあり方を探りました。
端的に言えば今回の調査において痛感したことは、非難される対象としての「汚職」という概念が共有されている一方で、人々の生活空間における具体的な汚職行為に関しては多様な認識がなされている、ということでした。さらに言えば、人々は大規模な汚職に関しては非常に嫌悪感を抱き非難する傾向にあるのですが、小規模な汚職に関しては、さらに細分化される事例の状況に応じて、あるいは各個人の経験に応じて、その認識のあり方や抱く感情に差異があります。他方でそれと同時に、近年のグッド・ガバナンス論の興隆を背景に、概念として汚職が非難されるべき対象であるという理解もあり、こうした概念としての論と実生活の中の具体的な行為の認識との狭間に人々がいるように思えました。
実際の汚職行為に対する多様な認識のあり方について、いくつか例を挙げます。今回聞き取りを行った人々によれば、彼らが日常生活において最も頻繁に遭遇する汚職の場面は、自動車を取り締まる警察官が運転手に賄賂を要求する、というものです。そこで、警察官による賄賂の要求、という要素だけを固定しながら架空の事例をいくつか用意して、それに対する人々の意見を聞き取りました。まずは、仮に自分が車を運転していて、シートベルトを締めていなかったことが警察官に見つかったという事例です。罰金として30,000シリング(日本円で約1500円)を国家に支払う代わりに、その警察官に対して個人的に10,000シリング払えば見逃してもらえる、と警察官から提案された場合にどうするか、と聞いた際には、ほとんど全ての人がその賄賂を支払う、と回答しました。また、この事例に関しては、賄賂を支払う動機やそれに対する感情はおおよそ内容が類似していました。それは「皆がやっているのだから自分だけやらない理由はない」というものです。つまり、賄賂を支払うことが、一般的にメディア等で非難される「汚職」に与する行為であると理解していながらも、自分にとってペイするものであり、かつ周囲でも頻繁に行われているものであるから、多少の罪悪感は感じながらも半ば当然のものとして支払う、というものです。
他方で、この事例を提示した際には、回答者が多少の怒りを示しながら、自身から補足を始めることも少なくありませんでした。それは「警察官側は何かしら理由を探してでも賄賂を要求してくる」というものです。つまり、シートベルトの締め忘れや交通違反といった外部から判別できる違反がなくとも、警察官が車を脇に停めさせることは少なくなく、その場合警察官は免許証や車の保険の有効期限をまず確認し、そこにも問題がなければ、消化器や三角表示板の搭載を確認してまで違反を探し出し賄賂を要求しようとする、と不満を口にする回答者が多くいました。あるいは回答者によっては、警察官は最後には車を揺らして車からガソリンが滴るかどうか確認する、とあきれて笑いながら話した者もいました。また、このようにして警察官によって「あぶり出された」違反に対して要求される賄賂に対しては、人々はよりネガティブな感情を抱いていました。さらにその中でも、免許証の不携帯や車の保険の期限切れに対して要求される賄賂に関しては、多少は人々が納得していることが感じられましたが、特に消化器や三角表示板の搭載に対して要求される賄賂に対しては、明らかにネガティブな感情が読み取れました。
それに加えて、賄賂によって自らが得をするような事例に関しても意見を聞きました。自分と共にダルエスサラームに上京した友人が警察官に就職したと仮定して、その友人が、賄賂で得た金で自分にビールを奢ると提案した時にどうするか、という事例です。これに関しては回答者によって大きく差異が見られました。すなわち、迷わず奢ってもらう、あるいはさらに多くの賄賂を得て、より多くのビールを奢るよう助言する、と答える回答者もいれば、賄賂を得ることをやめるよう勧めるとの回答もありました。前者の回答に関しては、賄賂を獲得できる立場にあるのにそれを行わない方が愚かである(“It’s stupid not to do it”)という理由を説明する回答者もいました。それに対して後者の回答に関して理由を聞いたところ、「賄賂の要求を続けた結果、偶然自分に近しい人物から賄賂を受け取った際に人間関係が崩壊するかもしれない」や「果てしなく続く欲望に打ち克たなければならない」といった回答があり、法を守ることの重要性自体は指摘されなかったのが印象的でした。
こうした回答を踏まえた上で、人々の認識のあり方に対していかなる解釈を行うべきか、という点は今後さらなる課題として設定していますが、今回の調査を通じて以下の点ははっきりと実感することができました。つまり、一口に「汚職」と分類される行為に対しても、少なくとも私が今回調査を行なった人々の間では、文脈に応じて多様な認識がなされています。時には、ある種の非公式の制度とも言えるほど当然のように与するような行為であり、時には「被害」を受けたと強い憤りを感じるような行為であり、あるいは友人を通じて自らに恩恵をもたらす行為でもあり、それに遭遇することで自らの倫理や認識のあり方を確かめる機会を与えるものでもあります。しかし同時に、そうした行為は一般的に非難されている「汚職」に分類されるものであると、皆が理解していることにも着目しなければなりません。私が汚職の話題を出せば、多くの回答者は少し顔をしかめながら汚職が国にはびこっていることを指摘していました(“Corruption is everywhere”)。つまり人々は、一方で個々の行為に対しては、その文脈に応じて多様な認識や感情を抱いていますが、同時に他方で、グローバルに展開されている、ある種概念的に「汚職」を非難するような言説に触れ、それを内面化せざるをえない状況にあります。また、現政権は汚職に対してかなり厳格な態度を取っており、警察官も以前ほど賄賂を要求できなくなっている、との声も多数耳にしました。賄賂を要求している姿を撮影した動画がインターネット上で共有され、最終的にはその警察官が公的な処分を受けた、という事例も出てきています。
今後は、上記のような多様な認識のあり方に対する解釈の仕方を模索するとともに、このようなある種の「狭間」とも解釈できる状況下で、調査地の人々の認識のあり方がどのように変化するのか(しないのか)という点にも焦点を当てて調査を進めていく予定です。汚職を非難する言説も、概念として汚職は悪であるという人々の認識も、もはや不可逆な流れの上にあると考えています。そうした中で、実生活の中に具体的に位置付けられるような、汚職行為や法の違反・遵守に対する人々の認識のあり方がいかなる動態性を持っているのかを観察していく予定です。